朝長
観世元雅作 前 ワキ 清凉寺の僧 シテ 青墓長者の娘 トモ 従者 後 ワキ 前に同じ ワキヅレ 伴僧 シテ 大夫進朝長 地は 美濃 季は 春正月 ワキ詞「是は嵯峨清凉寺より出でたる僧にて候。さても此度平治の乱れに。義朝都を御ひらき候。中にも大夫進朝長は。美濃の国青墓の宿にて自害し果て給ひたる由承り候。我等も朝長の御ゆかりの者にて候ふほどに。急ぎ彼所に下り。御跡をも弔ひ申さんと思ひ立ちて候。 道行「近江路や。瀬田の長橋うちわたり。〳〵。猶行すゑは鏡山。老曽の森を打ち過ぎて。末に伊吹の山風の。不破の関路を過ぎ行き。青墓の宿に着きにけり。〳〵。 シテ、トモ次第「花の跡訪ふ松風や。〳〵。雪にも恨みなるらん。 シテ「是は青墓の長者にて候。 シテ、トモ「それ草の露水の泡。はかなき心のたぐひにも。哀を知るは習ひなるに。是は殊更思はずも。人のなげきを身のうへに。かゝる涙の雨とのみ。しをるゝ袖の花薄。穂に出だすべき言の葉も。泣くばかりなる有様かな。 下歌「光りの陰を惜しめども。月日の数は程ふりて。 上歌「雪の内。春は来にけりうぐひすの。〳〵。氷れる涙今は早。解けても寝ざれば夢にだに。御面影の見えもせで。痛はしかりし有様を。思ひ出づるもあさましや。〳〵。 シテ詞「ふしぎやな此御墓所へ我ならでは。七日々々に参り。御跡弔ふものもなきに。旅人と見えさせ給ふ御僧の。涙をながし懇に弔ひ給ふは。如何なる人にてましますぞ。 ワキ詞「さん候是は朝長の御ゆかりの者にて候ふが。御跡弔ひ申さんため是まで参りて候。 シテ「御ゆかりとはなつかしや。さて朝長の御ため如何なる人にてましますぞ。 ワキ「是は朝長の御めのと何某と申す者にて候ひしが。さる事有りて御暇たまはり。はや十箇年に余り。かやうの姿となりて候。とくにも罷り下り。御跡弔ひ申したくは候ひつれども。怨敵のゆかりをば。出家の身をも許さねば。抖擻行脚に身をやつし。忍びて下向仕りて候。 シテ「さては取り分きたる御なじみ。さこそは思し召すらめ。わらはも一夜の御宿りに。あへなく自害し果て給へば。たゞ身のなげきの如くにて。かやうに弔ひ参らせ候。 ワキ「実に痛はしや我とても。もと主従の御契り。是も三世の御値遇。 シテ「わらはも一樹の陰のやどり。他生の縁と聞く時は。実に是とても二世のちぎりの。 ワキ「今日しも互にこゝにきて。 シテ「弔ふ我も。 ワキ「朝長も。 地「死の縁の。所も逢ひに青墓の。〳〵。跡のしるしか草の陰の。青野が原は名のみして。古葉のみの春草は。さながら秋の浅茅原。荻の焼原の跡までも。げに北邙の夕煙。一片の雲となり。消えし空は色も形も。なき跡ぞあはれなりける。〳〵。 ワキ詞「如何に申し候。朝長の御最期の有様くはしく語つて御きかせ候へ。 シテ「申すにつけて痛はしや。暮れし年の八日の夜に入りて。門を荒けなく敲く音す。誰なるらんと尋ねしに。鎌田殿と仰せられしほどに門を開かすれば。武具したる人四五人内に入り給ふ。義朝御親子。鎌田金王丸とやらん。わらはを頼みおぼしめす。明けなば河船にめされ。野間の内海へ御落あるべきとなり。又朝長は。都大崩にて膝の口を射させ。とかく煩ひ給ひしが。夜更け人静まつて後。朝長の御声にて。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と二声のたまふ。鎌田殿まゐり。こはいかに朝長の御自害候ふと申させ給へば。義朝おどろき御覧ずれば。はや御肌衣も紅に染みて。目もあてられぬ有様なり。其時義朝。何とて自害しけるぞと仰せられしかば。朝長息の下より。さん候都大崩にて膝の口を射させ。既に難儀に候ひしを。馬にかかり是までは参り候へども。今は一足も引かれ候はず。路次にて捨てられ申すならば。犬死すべく候。唯返す〴〵御先途をも見とゞけ申さで。かやうになりゆき候ふ事。さこそゆひかひなき者と。おぼしめされ候はんずれども。道にて敵に逢ふならば。雑兵の手にかゝらん事。あまりにくちをしう候へば。是にて御暇たまはらんと。 地「是を最期の御言葉にて。事切れさせ給へば。義朝正清とりつきて。なげかせ給ふ御有様は。よその見る目も。あはれさをいつか忘れん。悲しきかなや。形をもとむれば。苔底が朽骨。見ゆるもの今は更になし。さて其声を尋ぬれば。草径が亡骨となつて。答ふるものも更になし。三世十方の仏陀の聖衆も。あはれむ心あるならば。亡魂幽霊も。さこそうれしとおもふべき。 地「かくて夕陽かげうつる。〳〵。雲たえ〴〵に行く空の。青野が原の露わけて。彼旅人を伴ひ。青墓の宿に帰りけり。〳〵。 シテ詞「御僧に申し候。見ぐるしく候へども。しばらく是に御逗留候ひて。朝長の御跡御心しづかに弔ひ参らせられ候へ。 ワキ詞「誠に御志有難う候。暫くこれに候ふべし。 シテ「誰かある罷り出でゝ御僧に宮仕へ申し候へ。(中入) ワキ「さても幽霊朝長の。仏事はさま〴〵おほけれども。 ツレ「とりわき亡者の貴み給ひし。 ワキ「観音懺法読みたてまつり。 二人歌「声満つや。法の山風月ふけて。〳〵。光やはらぐ春の夜の。眠りを覚ます鈸鼓。時もうつるや後夜の鐘。音すみわたる折からの。御法の夜声感涙も。うかぶばかりのけしきかな。〳〵。 後ジテ「あらありがたの懺法やな。昔在霊山名法華。今在西方名阿弥陀。娑婆示現観世音。三世利益同一体。まことなるかな誠なるかな。頼もしや。きけば妙なる法の御声。 地「吾今三点。 シテ「楊枝浄水唯願薩埵と。 地「心耳を澄ませる玉文の瑞諷。感応肝に銘ずる折から。 シテ「あら尊の弔ひやな。 ワキ「ふしぎやな観音懺法声すみて。灯の陰幽なるに。まさしく見れば朝長の。影の如くに見え給ふは。若々夢かまぼろしか。 シテ「もとより夢まぼろしの仮の世なり。其うたがひを止め給ひて。猶々御法を講じ給へ。 ワキ「げに〳〵かやうにま見え給ふも。偏に法の力ぞと。思ひの玉の数くりて。 シテ「声を力にたよりくるは。 ワキ「まことの姿か。 シテ「まぼろしかと。 ワキ「見えつ。 シテ「かくれつ。 ワキ「おもかげの。 地「あれはとも。いはゞ形や消えなまし。〳〵。消えずはいかで灯を。背くなよ朝長を。共にあはれみて深夜の。月も影そひて。光陰を惜しみ給へや。げにや時人を。待たぬ浮世のならひなり。唯何事もうち捨てゝ。御法を説かせ給へや。〳〵。 シテクリ「それ朝に紅顔あつて。世路にほこるといへども。 地「夕には白骨となつて郊原に朽ちぬ。 サシ「昔は源平左右にして。朝家を守護し奉り。 地「御代を治め国家をしづめて。万機の政すなほなりしに。保元平治の世のみだれ。いかなる時か来りけん。 シテ「思はざりにし弓馬のさわぎ。 地「ひとへに時節到来なり。 クセ「さる程に。嫡子悪源太義平は。石山寺に籠りしを。多勢に無勢かなはねば。力なく生捕られて。終に誅せられにけり。三男兵衛の佐をば。弥平兵衛が手にわたり。是も都へぞ捕られける。父義朝は是よりも。野間の内海に落ちゆき。長田をたのみ給へども。頼む木のもとに雨もりて。やみ〳〵と討たれ給ひぬ。いかなれば長田は。ゆひかひなくて主君をば。討ち奉るぞや。如何なれば此宿の。あるじはしかも女人の。かひ〴〵しくも頼まれて。一夜の情のみか。かやうに跡までも。御弔ひになる事は。 シテ「そも〳〵いつの世の契りぞや。 地「一切の男子をば。生々の父と頼み。万の女人を。生々の母と思へとは。今身の上に知られたり。さながら親子の如くに。御なげきあれば弔ひも。誠に深き心ざし。請けよろこび申すなり。朝長が後生をも。御心やすくおぼしめせ。 ロンギ地「げに頼むべき一乗の。功力ながらになどされば。いまだ嗔恚の甲冑の。御有様ぞいたはしき。 シテ「梓弓。もとの身ながら玉きはる。魂は善所におもむけども。魄は修羅道に残つて。しばし苦しみを受くるなり。 地「そも〳〵修羅の苦患とは。いかなる敵に合竹の。 シテ「此世にて見しありさまの。 地「源平両家。 シテ「入り乱るゝ。 地「旗は白雲紅葉の。散りまじり戦ふに。運の極めの悲しさは。大崩にて朝長が。膝の口をのぶかに射させて。馬の太腹に射つけらるれば。馬は頻りにはねあがれば。鐙をこして下り立たんとすれども。難儀の手なれば。一足もひかれざりしを。乗替にかきのせられて。憂き近江路を凌ぎ来て。此青墓に下りしが。雑兵の手にかゝらんよりはと。思ひさだめて腹一文字に。かき切つて其まゝに。修羅道に遠近の。土となりぬる青野が原の。亡き跡訪ひて給びたまへ。亡き跡を訪ひて給び給へ。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第二輯』大和田建樹 著