満仲 一名 仲光
世阿弥作 シテ 藤原仲光 ツレ 多田満仲 子方 美女丸 同 幸寿 狂言 仲光従者 ワキ 恵心僧都 地は 摂津 季は 雑 シテ詞「これは多田の満仲に仕へ申す。藤原の仲光と申す者にて候。さても御子美女御前は。あたり近き中山寺に登せおかれ候ふ所に。学問をば御心に入れ給はず。明暮武勇を御嗜み候ふ由聞しめされ。以ての外の御憤りにて。某に罷り上り御供申せとの御事にて候ふ程に。今日中山寺へ参り。美女御前を御供申し。只今御所へ参り候。如何に申し上げ候。美女御前を御供申して候。 満仲詞「いかに美女。久しく寺より呼び下さゞるは。学問能くせよとなり。まづ〳〵御経聴聞せんと。紫檀の机に金泥の御経。それ〳〵読誦し給へと。美女が前にぞさし置きたる。 美女「美女は父御の仰せに付きても。住むかひもなき浅香山。手習ふ事もなかりしかば。ましてや御経の一字をだに。読まざりければ今更に。涙に咽ぶばかりなり。 満仲詞「実に〳〵満仲が子なれば。一寺の賞翫隙を得ず。御経よまぬは理なれ。さて歌は。 美女「よみ得ず候。 満仲「管絃は。問へども言はぬ口なしの。 地「こは誰が為めなれば。父がさしもに言ひし事に。跡をつけぬ庭の雪。人に見せんもなにがしが。子といふかひもなかるべしとて。御佩刀を取り給へば。走りいづるや仲光が。中にて兎角御袖に。取り付きすがり申しつゝ。危き美女御前の。御身の程ぞいたはしき。 満仲詞「いかに仲光。心をしづめて聞き候へ。子供を寺へ登せおくは。学問の為にてこそ候へ。明暮武勇を嗜まんには。寺に置きてのかひは何事ぞ。 シテ詞「御諚尤にて候ふさりながら。折々の御折檻にてこそ候へ。先々御佩刀を賜はり候へ。 満仲「所詮美女を討つて参り候へ。さなきものならば。明神氏の神も御知見あれ。仲光共にそのまゝには置くまじきぞ。 シテ「何事も御諚をば背き申すまじく候。まづ〳〵御内へ御入り候へ。 シテ詞「言語道断。以ての外の御怒りにて候。御叱り有るべきとは存じ候へども。かほどまでとは存ぜず候。いや〳〵何と仰せ候ふとも。一まづ落し申さばやと存じ候。いかに申し上げ候。只今は余りの御怒りにて。某も迷惑仕りて候。 美女「如何に仲光。只今自を逃しつるは。仲光が制するによれり。美女を討つて参らせよと怒り給ふを。我物ごしに聞きしなり。はや自が首を取り。父御の御目にかけ候へ。 シテ「げに〳〵健気なる事を仰せ候ふ物かな。所詮何と仰せ候ふとも。一まづ落し申さうずるにて候。や。何と申すぞ。又御使の立ちたると申すか。あら笑止や。さて何と仕り候ふべき。げにや何事も報い有りける憂き世かな。 詞「伝へきく阿闍世太子は頻婆娑羅を害せずや。是れ皆宿縁かくの如し。 美女「過去にてなせば。 シテ「現世にやがて。 地「報いは人の咎ならじ。只自が為すところを。愚にや恨みある。憂き世の中と思ふらん。たがひに憂き事を。語り語れば時移る。はや首とれや仲光と。言の葉も涙も。すゝむこそ悲しかりけれ。 シテ詞「あはれ某御年の程にて候はゞ。御命に代り候はんずるものを。惜しからぬ命も事によりて。心にまかせぬ口をしさは候。 幸寿詞「いかに父上。只今の御言葉こそ。幸寿が耳に留まりて候へ。早自が首を取り。美女御前と仰せ候ひて。主君の御目に掛けられ候へ。 シテ「何と申すぞ。美女御前の御命に代らうずると申すか。さすが仲光が子にて候。げに〳〵汝が首を取り薄衣に包み。夜まぎれに遠々と御目にかくるならば。さすが親子の御事なれば。よもさだかには御覧じ候ふまじ。さらば御命に代り候へ。時刻移りて叶ふまじと。太刀おつ取つて仲光は。我子の後に立ちよれば。 美女「美女は余りの悲しさに。仲光が袂にすがりつゝ。たとひ幸寿を失ふとも。共に自害に及ぶべしと。泣きかなしみて制すれば。 シテ「なふお主の命に代る事。弓矢取る身の習ひなり。 美女「悲しやな互に争ふ命の際。 幸寿「幸寿もすゝみ。 美女「美女も立ちよる。 幸寿「かなたは主君。 シテ「此方は思ひ子。 美女「中にてなか〳〵。 シテ「仲光が。 地「身は是程に惜しからじ。何とかせましとやあらんと。猛き心にも。弱り果てたるけしきかな。 美女「親にだに。惜しまれぬ身を何とたゞ。かく思ふらん中々に。情のつらさ如何ならん。 幸寿「情は人の為ならじ。今此際の御命に。代り申さずは。弓矢の家の名ぞ惜しき。 地「かなたこなたも幼き。御身にだにも理の。或は御主子は惜しゝ。主君をば如何で手にかけんと。心よわしや白真弓。ゆん手に有るは我子ぞと。思ひ切りつゝ親心の。闇討に現なき。我子を夢となしにけり。〳〵。 狂言詞「シカ〳〵。 シテ詞「げに〳〵汝が申す如く。某が心中さつし候へ。又美女御前を御供申し。何方へも立ち退き候へ。 シテ詞「如何に申し上げ候。美女御前を討ち奉りて候。 満仲詞「いしくも仕りたるものかな。さこそ最期の未練に有りつらんな。 シテ「いやさは御座なく候。某太刀抜き持つて。少しためらひ候ふところに。やあいかに仲光おくれたるかと。是を最期の御言葉にて候。 満仲「いかに仲光。おこと存じの如く。総じて美女ならで子と云ふ者なし。今日よりしては汝が子の幸寿を一子と定むべし。急いで呼び出だし候へ。 シテ「其御事にて候。美女御前の御別を悲しみ。元結切り暮に失せて候。同じくは仲光にも御いとま賜はり候へ。様変へばやと思ひ候。 満仲「心強くは言ひつれども。さぞ思ふらん美女丸をも。我子の如く手馴れしに。二人の者に別るゝ思ひ。 下歌地「よしや王土に住む習ひ。貴命は誰も遁れぬぞと。仲光をとにかくに。すかし給ふぞよしなき。 上歌「げにや親子の道なれば。〳〵。あはれとや又思子の。跡とふ法の事業を。営み給ふあはれさよ。〳〵。 ワキ詞「是は比叡山恵心の僧都にて候。さても去る子細候ひて。只今多田の満仲の御所へと急ぎ候。先々此方へ渡り候へ。いかに案内申し候。 シテ詞「誰にて渡り候ふぞ。や。恵心の僧都の御下向にて御座候ふよ。 ワキ「いかに仲光。さても幸寿が事は候。まづ某が参りたる由御申し候へ。 シテ「心得申し候。如何に申し上げ候。恵心の僧都の御出でにて候。 満仲「あら思ひよらずや。先々此方へと申し候へ。 シテ「畏つて候。此方へ御入り候へ。 ワキ「心得申し候。 満仲「さて只今は何の為の御出でにて候ふぞ。 ワキ「さん候只今参る事余の儀に非ず。美女御前の御事を申さん為に参りて候。 満仲「その事にて候。余りに不思議の者にて候ふ程に。仲光に申し付け失ひて候。 ワキ「其事にて候。まづ御心を静めて聞し召され候へ。美女御前を失ひ申せとの御使しきりなりしに。仲光心に思ふやう。いかで三世の主君を手に懸け申すべきと思ひ。我子の幸寿が首を切り。美女と申して御目にかけて候。されば我子に代へて思ふ程の。美女御前の御不審免しおはしませと。美女を引き具し満仲の御前にこそ参りけれ。 満仲詞「さればこそ猶未練なる美女なりけり。幸寿を殺さば諸共に。などや自害に及ばざる。 ワキ詞「いや〳〵諸事をさし置きて。幸寿が仏事と思し召し。美女を助けてたび給へと。涙を流し申しければ。 地「猛き心もよわ〳〵と。はや領掌を申しけり。仲光余りの嬉しさに。御盃や菊の酒。仙家に入りし身の。七世の孫に逢ふ事も。たとへならずや親と子の。一世のちぎりの。二度逢ふぞ嬉しき。 シテ「親子鸚鵡の盃の。幾久しさの酒宴かな。 ワキ詞「いかに仲光。目出度き折なれば一指御舞ひ候へ。 地「幾久しさの酒宴かな。(男舞) シテワカ「鴛鴦の。友なき水に浮き沈み。 地「下安からぬ思ひこそあれ。 シテ「あはれやげに我子の幸寿が有るならば。美女御前と相舞せさせ。仲光手拍子囃し。只今の涙を感涙と思はゞ。いかゞは嬉しかるべき。 地「思ひは涙。よそめは舞の手。交るは袖の。上露も下露も。おくれ先だつ浮世の習ひ。昨日は歎き。今日は喜びの都にかへる。是までなりと。恵心の僧都は。美女を伴なひ帰りければ。仲光も遥に脇輿に参り。此度の御不審人為にあらず。かまひて手習学問。ねんごろにおはしませと。御暇申して帰りけるが。無慙や幸寿が御供ならばと。暫しは御輿を見送り申し。暫しは御輿を見送り申して。うちしをれてぞ留まりける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第五輯』大和田建樹 著