錦戸
宮増作 前 ワキ 錦戸太郎泰衡 シテ 泉三郎忠衡 ツレ女 忠衡妻 後 ワキ 前に同じ シテ 前に同じ 地は 陸奥 季は 雑 ワキ詞「かやうに候ふ者は。奥州の住人秀衡が子に。錦戸の太郎にて候。さても頼朝義経御中不和にならせ給ふにより。判官殿は親にて候ふ者を御頼み有り。是まで御下向候ふ間頼まれ申し候ふ処に。御運の尽きさせ給ふにや。親にて候ふ者空しく成りて候。そのきはに我等を近づけ。君に心変り申すなと。堅く申しつけ金打せさせて候。尤其儀違変なく候ふ処に。いかなる者の申し候ふやらん。我等君に心変り申す由を聞しめし。日々に出仕申すといへども。更に御対面もなく候ふ間。此上は力及ばぬ事と存じ候ふ処に。頼朝より御教書をなされ。いそぎ参るべき由を度々仰せられ候ふ程に。泰衡我等は同心仕り。はや頼朝へ参るべきに定めて候。いまだ此由を三男泉の三郎に申さず候ふ間。唯今泉が館に行き。かやうの事をも談合せばやと存じ候。 詞「いかに案内申し候。 シテ「誰にて渡り候ふぞ。 ワキ「某が参りて候。 シテ「や。こなたへ御いで候へ。さて唯今の御出では何の為めにて候ふぞ。 ワキ「さん候唯今参ること余の儀にあらず。さても我等日々に出仕申し候へども。更に御対面もなく候ふ間。力及ばぬ事と存じ候ふ処に。頼朝より御教書をなされ。いそぎ参れとの御事にて候ふ程に。泰衡我等同心し。はや頼朝へ参るべきに定めて候ふが。御分は何とか思ひ給ひ候ふぞ。 シテ「仰せ畏つて承り候ひぬ。我君も人の申しなしにて。一旦の御恨事にてこそ候ふらめ。其上御遺言の事にて候ふ間。唯思しめし御止り候へ。 ワキ「申すところはさる事なれどもさりながら。我等他門へ参らばこそ。世の人口もあるべけれ。同じ主君に仕へん事。何の苦しう候ふべき。只々同心し給へとよ。 シテ「いや頼朝への御忠節。我君の奉公になるべからず。其上今まで頼まれ申す。主君に心を引きかへて。敵とならせ給はんは。御兄弟のたとへは入るべからず。一家の恥は如何ならん。 ワキ「さてはおことは承引あるまじきか。 シテ「恐れながら身に於て。まことに同心申しがたし。 ワキ「いや〳〵御身は詞を巧みのたまへども。順儀の法は違ひたり。 シテ「いや順儀を存ずる身なればこそ。親の遺言そむかぬなり。 ワキ「それは何とて正しき兄の言事をば聞き給はぬぞ。 シテ「仰せを背くと承れども。親の遺言承引なきは。不孝の科にてましまさずや。 ワキ「不孝の科は数多あり。汝は兄の言事を。 シテ「承引なきは主君の命。 ワキ「其外親子。 シテ「兄弟の。 地「たがひの論は槻弓の。〳〵。力及ばぬ事なれば。是までなりや今ははや。兄と思ふな弟とも。見る事さらに有るまじと。座敷を立ちて錦戸は。帰る心ぞあさましき。〳〵。 シテ詞「言語道断の事にて候。先々妻にて候ふ者を呼び出だし。此事を申し聞かさばやと存じ候。いかに渡り候ふか。 ツレ詞「何事にて候ふぞ。 シテ「まづ此方へ渡り候へ。さても早我君の御運こそ末にならせ給ひて候へ。 ツレ「そも我君の御運の末にならせ給ひたるとは。何と申したる御事にて候ふぞ。 シテ「さん候我君御対面なき事を。錦戸泰衡無念に思ひ。兄弟はや敵となり。某にも同心せよと宣へども。まづ案じても御覧ぜよ。今まで頼まれ申す主君に心を引きかへて。親の遺言背かん事。弓矢取つての恥辱なるべし。さればある詞にいはく。賢人二君に仕へず。貞女両夫にまみえずと。 地「此ことわりを聞く時は。男女によるまじや。殊に弓馬の家に生まれ。二人の主君には。いかでか仕へ申さん。 シテ詞「や。何と申すぞ。某同心せざる事を錦戸泰衡無念に思ひ。只今討手にむかふと申すか。あら何ともなや。某が事は親の遺言にて候ふ程に。一足も落つる事は候ふまじ。不覚を見えんもくちをしければ。御身は何方へも御忍び候へ。 ツレ「実に〳〵敵は寄せきたる。いかに心は猛くとも。女の身にて候へば。思ひ切らせ給ひたる。御身の障りともなるべきなり。まづ〳〵妾はともかくも。自害に及び候ふべし。御心安く御覧じ置きて。討死めされ候へ。 シテ詞「げに健気なる言事かな。さらば自害に及び給へ。 ツレ「承りて候ふとて。心づよくも夕日の影の。 シテ「西に向ひて。 二人「手を合はせ。 地「弥陀仏。助け給へと祈念して。〳〵。心づよくも自害せんと。思ひ定めたる。夫婦の身こそあはれなれ。其時腰刀を。抜き持ちて立ちより。我も是にて腹切らん。御身も自害し給へと。いへば刀を請け取りて。胸のあたりに突き立てゝ。よろ〳〵と倒れ伏しければ。泉は死骸にとりつきて。泣くより外の事ぞなき。〳〵。(中入) 後ワキ一声「藤波の。かゝれる松の梢をば。嵐やよせて散らすらん。 ワキ詞「いかに泉の三郎たしかに聞け。水は逆さまに流るゝものか。順逆二列の境に迷ひ。我と其身を失ふなり。恨みと更に思ふべからず。尋常に腹切り給へ。 シテ詞「何錦戸の討手とや。 ワキ「なか〳〵の事。 シテ「あらめづらしや。いで〳〵対面申さんと。物の具取つて肩にかけ。大太刀追つ取り櫓にあがり。大音あげて名のるやう。君親ふたつは二体の義。君を重んじ親子の孝行。賢人無双の弓取に。かへつて兎角の仰せは如何に。あら腹立ちや無念やな。 ワキ詞「いや〳〵兎角の問答は無益。はや打ち捕れや兵と。 地「下知を加ふる下よりも。〳〵。我も〳〵と面々に。結橋や堀の埋草。沈めつゝ乗り越え〳〵。断岸によせつけて。をめきさけんで攻めたりけり。 シテ「われながら兄弟に。 地「矢を放さんは恐れなり。さりながら是は又。主君の為めに捨てん命。何かは科ならん。惜しからぬ我身なり。とく寄りて討てや人々。其時寄手の勢は。〳〵。我真先にと進みけるに。泉は少しもさわがずして。もとより好む大太刀を。柄長に追つとりのべて。多勢が中に割つて入りつゝ。左り右りに合ひ附けて。しのぎを削つて戦ひけるに。一人とすゝめる武者の。兜の真向ちやうと打ち引く。太刀にて諸膝かけず流れて。かつぱと倒れてどうと伏す。 シテ「今は是までなり。 地「さこそは妻も待つらんものを。いで追つ付かんと言ふ儘に。物の具取つてかしこに投げすて。日頃念ぜし持仏堂の。床の上に走りあがり。浄土に迎へ給へと。腹十文字にかき切り。床よりもころび落ちけるを。敵の兵おりかさなつて。追つ立て行くこそあはれなれ。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第二輯』大和田建樹 著