鵺
世阿弥作 前 ワキ 旅僧 シテ 船人 後 ワキ 前に同じ シテ 鵺の霊 地は 摂津 季は 四月 ワキ次第「世を捨人の旅の空。〳〵。来し方何処なるらん。 詞「是は諸国一見の僧にて候。我此程は三熊野に参りて候。又是より都に上らばやと思ひ候。 道行「程もなく。帰り紀の路の関越えて。〳〵。猶行く末は和泉なる。篠田の森を打ち過ぎて。松原見えし遠里の。こゝ住の江や難波潟。蘆屋の里に着きにけり。〳〵。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。是は早津の国蘆屋の里に着きて候。日の暮れて候ふ程に。宿を借らばやと思ひ候。 シテサシ「悲しきかなや身は籠鳥。心を知れば盲亀の浮木。たゞ闇中に埋木の。さらば埋れも果てずして。亡心何に残るらん。 一声「浮き沈む。涙の波の空穂舟。 地「こがれて堪へぬいにしへを。 シテ「忍びはつべき隙ぞなき。 ワキ「不思議やな夜も更方の浦波に。幽かに浮び寄る物を。見れば聞きしに変らずして。舟の形は有りながら。唯埋木の如くなるに。乗る人影もさだかならず。あら不思議の者やな。 シテ「不思議の者と承る。其方は如何なる人やらん。もとより憂き身は埋木の。人知れぬ身とおぼしめさば。不審な為させ給ひそとよ。 ワキ「いや是は唯此里人の。さも不思議なる舟人の。夜々来ると言ひつるに。見れば少しも違はねば。我も不審を申すなり。 シテ「此里人とは蘆の屋の。灘の塩焼く海士人の。類ひを何と疑ひ給ふ。 ワキ「塩焼く海士の類ひならば。業をば為さで暇ありげに。夜々来るは不審なり。 シテ「実に〳〵暇の有る事を。疑ひ給ふも謂あり。古き歌にも蘆の屋の。 ワキ「灘の塩焼き暇なみ。黄楊の小櫛は刺さず来にけり。 シテ「我も憂きには暇なみの。 ワキ「汐にさゝれて。 シテ「舟人は。 地「さゝで来にけり空穂舟。〳〵。現か夢か明けてこそ。みるめも刈らぬ蘆の屋に。一夜寝て海士人の。心の闇を弔ひ給へ。有難や旅人は。世を遁れたる御身なり。我は名のみぞ捨小舟。法の力を頼むなり。〳〵。 ワキ詞「何と見申せども更に人間とは見えず候。如何なる者ぞ名を名乗り候へ。 シテ詞「是は近衛の院の御宇に。頼政が矢先にかゝり。命を失ひし鵺と申しゝものゝ亡心にて候。其時の有様委しく語つて聞かせ申し候ふべし。跡を弔うて賜はり候へ。 ワキ「さては鵺の亡心にて候ふか。其時の有様委しく語り候へ。跡をば懇に弔ひ候ふべし。 地クリ「さても近衛の院の御在位の時。仁平の頃ほひ。主上夜な夜な御悩あり。 シテサシ「有験の高僧貴僧に仰せて。大法を修せられけれども。其しるし更になかりけり。 地「御悩は丑の刻ばかりにてありけるが。東三条の森の方より。黒雲一村立ち来つて。御殿の上におほへば。必ずおびえ給ひけり。 シテ「即ち公卿詮議あつて。 地「定めて変化の者なるべし。武士に仰せて警固有るべしとて。源平両家の兵を撰ぜられける程に。頼政を撰び出だされたり。 クセ「頼政其時は。兵庫の頭とぞ申しける。頼みたる郎等には。猪早太。唯一人召し具したり。我身は二重の狩衣に。山鳥の尾にてはいだりける。尖矢二筋。滋籐の弓に取り添へて。御殿の大床に伺候して。御悩の刻限を。今や〳〵と待ち居たり。さる程に案の如く。黒雲一村立ち来り。御殿の上におほひたり。頼政きつと見上ぐれば。雲中に。怪しき者の姿あり。 シテ「矢取つて打ちつがひ。 地「南無八幡大菩薩と。心中に祈念して。よつぴきひやうと放つ矢に。手答へしてはたと当る。得たりやおうと矢叫びして。落つる所を猪早太。つゝと寄りてつゞけさまに。九刀ぞ刺いたりける。さて火を灯し能く見れば。頭は猿尾は蛇。足手は虎のごとくにて。鳴く声鵺に似たりけり。恐ろしなんども。愚かなる形なりけり。 ロンギ地「実に隠れなき世語りの。其一念を翻へし。浮ぶ力となり給へ。 シテ「浮ぶべき。たより渚の浅緑。水のかしはに有らばこそ。沈むは浮ぶ縁ならめ。 地「実にや他生の縁ぞとて。 シテ「時もこそあれ今宵しも。 地「なき世の人に合竹の。 シテ「棹取り直し空穂舟。 地「乗ると見えしが。 シテ「夜の波に。 地「浮きぬ沈みぬ。見えつ隠れ絶々の。幾重に聞くは鵺の声。恐ろしや冷ましや。あら恐ろしや冷ましや。(中入) ワキ歌「御法の声も浦波も。〳〵。皆実相の道弘き。法を受けよと夜と共に。此御経を読誦する。〳〵。一仏成道観見法界。草木国土悉皆成仏。 後ジテ「有情非情皆共成仏道。 ワキ「頼むべし。 シテ「頼むべしや。 地「五十二類も我同性の。涅槃に引かれて真如の月の。夜汐に浮びつゝ是まで来れり。有難や。 ワキ「不思議やな目前に来る者を見れば。面は猿足手は虎。聞きしにかはらぬ変化の姿。あら恐ろしの有様やな。 シテ「さても我悪心外道の変化となつて。仏法王法の障りとならんと。王城近く遍満して。東三条の林頭に暫く飛行し。丑三つばかりの夜な夜なに。御殿の上に飛び下れば。 地「即ち御悩しきりにて。玉体を悩まして。おびえたまいらせ給ふ事も。我なす業よと怒りをなしゝに。思ひもよらざりし頼政が。矢先に中れば変身失せて。落々磊々と地に倒れて。忽ちに滅せし事。思へば頼政が矢先よりは。君の天罰を当りけるよと。今こそ思ひ知られたれ。其時主上御感あつて。獅子王と言ふ御剣を。頼政に下されけるを。宇治の大臣賜はりて。階をおり給ふに。折節郭公音づれければ。大臣とりあへず。 シテ「ほとゝぎす名をも雲井に上ぐるかなと。仰せられければ。 地「頼政右の膝をついて。左の袖をひろげ。月を少し目に懸けて。弓張月の入るにまかせてと仕り。御剣を賜はり。御前を罷り帰れば。頼政は名をあげて。我は名を流す空穂舟に。押し入れられて淀川の。よどみつ流れつ行く末の。宇渡野も同じ蘆の屋の。浦わの浮洲に流れ留まつて。朽ちながら空穂舟の。月日も見えず暗きより。暗き道にぞ入りにける。遥かに照らせ山の端の。〳〵。月と共に海月も入りにけり。海月と共に入りにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第二輯』大和田建樹 著