白楽天
世阿弥作 前 ワキ 白楽天 シテ 漁翁 ツレ 漁夫 後 ワキ 前に同じ シテ 住吉明神 地は 肥前の海 季は 雑 ワキカヽル「そも〳〵是は唐の太子の賓客。白楽天とは我事なり。 詞「さても是より東に当つて国あり。名を日本と名づく。急ぎ彼土に渡り。日本の智恵を計れとの宣旨に任せ。唯今海路に趣き候。 次第「舟漕ぎ出て日の本の。〳〵。其方の国を尋ん。 道行「東海の。波路遥に行く舟の。〳〵。跡に入日の影残る。雲の旗手の天つ空。月また出づる其方より。山見えそめて程もなく。日本の地にも着きにけり。〳〵。 詞「海路を経て急ぎ候ふ程に。是ははや日本の地に着きて候。暫く此所に碇をおろし。日本のやうを詠めばやと存じ候。 シテ、ツレ一声「不知火の。筑紫の海の朝ぼらけ。月のみ残るけしきかな。 シテサシ「巨水漫々として碧浪天を浸し。 二人「越を辞せし范蠡が。扁舟に棹を移すなる。五湖の煙の波の上。かくやと思ひ知られたり。あらおもしろの海上やな。 下歌「松浦潟。西に山なき有明の。 上歌「月の入る。雲も浮ぶや沖つ舟。〳〵。互にかゝる朝まだき。海は其方か唐の。船路の旅も遠からで。一夜泊と聞くからに。月も程なき名残かな。〳〵。 ワキ詞「我万里の波濤を凌ぎ。日本の地にも着きぬ。是に小船一艘浮べり。見れば漁翁なり。如何にあれなるは日本の者か。 シテ「さん候是は日本の漁翁にて候。御身は唐の白楽天にてましますな。 ワキ「不思議やな始めて此土に渡りたるを。白楽天と見る事は。何の故にてあるやらん。 ツレ「其身は漢土の人なれども。名は先立つて日本に聞ゆ。隠れなければ申すなり。 ワキ「たとひ其名は聞ゆるとも。それぞとやがて見知る事。あるべき事とも思はれず。 シテ、ツレ「日本の智恵を計らんとて。楽天来り給ふべきとの。聞えは普き日の本に。西を詠めて沖の方より。船だに見ゆれば人毎に。すはやそれぞと心づくしに。 地「今や〳〵と松浦舟。〳〵。沖より見えて隠れなき。唐舟の唐人を。楽天と見る事は。何か空目なるべき。むつかしや言さやぐ。唐人なれば御詞をも。とても聞きも知らばこそ。あらよしな釣竿の。暇をしや釣垂れん。〳〵。 ワキ詞「なほ〳〵尋ぬべき事あり舟を近づけ候へ。如何に漁翁。さて此頃日本には何事を翫ぶぞ。 シテ「さて唐土には何事を翫び給ひ候ふぞ。 ワキ「唐には詩を作つて遊ぶよ。 シテ詞「日本には歌をよみて人の心を慰め候。 ワキ「そも歌とは如何に。 シテ「夫れ天竺の霊文を唐土の詩賦とし。唐土の詩賦を以て我朝の歌とす。されば三国を和らげ来るを以て。大きに和ぐと書いて大和歌と読めり。しろし召されて候へども。翁が心を御覧ぜん為め候ふな。 ワキ「いや其儀にてはなし。いでさらば目前の気色を詩に作つて聞かせう。青苔衣を負ひて巌の肩にかゝり。白雲帯に似て山の腰をめぐる。心得たるか漁翁。 シテ「青苔とは青き苔の。巌の肩にかゝれるが衣に似たるとかや。白雲帯に似て山の腰をめぐる。おもしろし〳〵。日本の歌もたゞ是候ふよ。苔衣着たる巌はさもなくて。衣着ぬ山の帯をするかな。 ワキ「不思議やな其身は賤しき漁翁なるが。かく心ある詠歌を連ぬる。其身は如何なる人やらん。 シテ「人がましやな名もなき者なり。されども歌を読む事は。人間のみに限るべからず。生きとし生ける物毎に。歌をよまぬは無き物を。 ワキ「そもや生きとし生ける物とは。さては鳥類畜類までも。 シテ「和歌を詠ずる其ためし。 ワキ「和国に於て。 シテ「証歌多し。 地「花に鳴く鶯。水に住める蛙まで。唐土は知らず日本には。歌をよみ候ふぞ。翁も大和歌をば。かたの如くよむなり。 地クセ「そも〳〵鶯の。歌をよみたる証歌には。孝謙天皇の御宇かとよ。大和の国高天の寺に住む人の。しきねんの春の頃。軒端の梅に鶯の。来りて鳴く声を聞けば。初陽毎朝来。不遭還本栖と鳴く。文字に写して是を見れば。三十一文字の。詠歌の詞なりけり。 シテ「初春のあした毎には来れども。 地「あはでぞ帰る。もとのすみかにと聞えつる。鶯の声を始めとして。其外鳥類畜類の。人にたぐへて歌をよむ。ためしは多く荒磯海の。浜の真砂の数々に。生きとし生ける物。何れも歌をよむなり。 ロンギ地「実にや和国の風俗の。〳〵。心有りける海士人の。実に有難き習ひかな。 シテ「とても和国の翫び。和歌を詠じて舞歌の曲。其いろ〳〵を顕はさん。 地「そもや舞楽の遊びとは。其役々は誰ならん。 シテ「誰なくとても御覧ぜよ。我だにあらば此舞楽の。 地「鼓は波の音。笛は龍の吟ずる声。舞人は此尉が。老の波の上に立つて。青海に浮びつゝ。海青楽を舞ふべしや。 シテ「蘆原の。 地「国も動かじ万代までに。(中入) 後ジテ「山影の。うつるか水の青き海の。 地「波の鼓の海青楽。(真の序) シテワカ「西の海。あをきが原の波間より。 地「顕はれ出でし住吉の神。住吉の神住吉の。 シテ「顕はれ出でし住吉の。 地「住吉の。神の力のあらん程は。よも日本をば従へさせ給はじ。速に浦の波。立ち帰り給ヘ楽天。 地「住吉現じ給へば。〳〵。伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田。安芸の厳島の明神は。娑竭羅龍王の。第三の姫宮にて。海上に浮んで。海青楽を舞ひ給へば。八大龍王は八りんの曲を奏し。空海に翔りつゝ。舞ひ遊ぶ小忌衣の。手風神風に。吹きもどされて唐船は。こゝより漢土に帰りけり。実に有難や神と君。実に有難や神と君が代の。動かぬ国ぞ久しき。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第一輯』大和田建樹 著