橋弁慶
日吉佐阿弥作 前 シテ 武蔵坊弁慶 トモ 従者 後 子方 源牛若 シテ 前に同じ 地は 京都 季は 夏六月 シテ詞「是は西塔のかたはらに住む武蔵坊弁慶にて候。我宿願の子細有つて。五条の天神へ。丑の時詣を仕り候。今日満参にて候ふ程に。唯今参らばやと存じ候。如何に誰か有る。 トモ詞「御前に候。 シテ「五条の天神へ参らうずるにて有るぞ其分心得候へ。 トモ「畏つて候。又申すべき事の候。昨日五条の橋を通り候ふ所に。十二三ばかりなる幼き者。小太刀にて切つて廻り候ふは。さながら蝶鳥の如くなる由申し候。先々今夜の御物詣は。思し召し御止まりあれかしと存じ候。 シテ「言語道断の事を申す者かな。たとへば天魔鬼神なりとも。大勢には叶ふまじ。おつ取りこめて討たざらん。 トモ「おつ取りこむれば不思議にはづれ。敵を手元に寄せ付けず。 シテ「手近く寄れば。 トモ「目にも。 シテ「見えず。 地「神変奇特不思議なる。〳〵。化生の者に寄せ合せ。かしこう御身討たすらん。都広しと申せども。是程の者あらじ。実に奇特なる者かな。 シテ詞「さあらば今夜は思ひ止まらうずるにて有るぞ。いや弁慶程の者の。聞き遁げは無念なり。今夜夜更けば橋に行き。化生の者を平らげんと。 地「夕べ程なく暮方の。〳〵。雲の気色も引きかへて。風すさましく更くる夜を。遅しとこそは待ち居たれ。〳〵。(中入) 牛若「さても牛若は母の仰せの重ければ。明けなば寺へ上るべし。今宵ばかりの名残なれば。五条の橋に立ち出でゝ。川波添へて忽ちに。月の光を待つべしと。 一声「夕波の。気色はそれか夜嵐の。夕べ程なき秋の風。 地「面白の気色やな。〳〵。そゞろ浮き立つ我心。波も玉散る白露の。夕顔の花の色。五条の橋の橋板を。とゞろ〳〵と踏み鳴らし。音も静かに更くる夜に。通る人をぞ待ち居たる。〳〵。 シテ詞「既に此夜も明方の。三塔の鐘も杉間の雲の。光りかゝやく月の夜に。着たる鎧は黒革の。おどしにおどせる大鎧。草摺長に着なしつゝ。もとより好む大長刀。真中取つて打ちかつぎ。ゆらり〳〵と出でたる有様。如何なる天魔鬼神なりとも。面を向くべきやうあらじと。我身ながらも物頼もしうて。手に立つ敵の恋しさよ。 牛若「川風も早更け過ぐる橋の面に。通る人もなきぞとて。心すごげに休らへば。 シテ「弁慶かくとも白波の。立ち寄り渡る橋板を。さもあらゝかに踏み鳴らせば。 牛若「牛若彼を見るよりも。すはやうれしや人来るぞと。薄衣猶も引きかづき。かたはらに寄り添ひたゝずめば。 シテ「弁慶彼を見付けつゝ。言葉をかけんと思へども。見れば女の姿なり。我は出家の事なれば。思ひわづらひ過ぎて行く。 牛若「牛若彼をなぶつて見んと。行きちがひざまに長刀の。柄元をはつしと蹴上ぐれば。 シテ「すは痴者よ物見せんと。 地「長刀やがて取り直し。〳〵。いで物見せん手並の程と。切つてかゝれば牛若は。少しも騒がずつゝ立ち直つて。薄衣引きのけつゝ。静々と太刀抜き放つて。つゝ支へたる長刀の。切先に太刀打ち合はせ。つめつ開いつ戦ひしが。何とかしたりけん。手元に牛若寄るとぞ見えしが。たゝみ重ねて打つ太刀に。さしもの弁慶合はせ兼ねて。橋桁を二三間。しさつて肝をぞ消したりける。あら物々しあれ程の。〳〵。小性一人を切ればとて。手並にいかで洩らすべきと。長刀柄長くおつ取りのべて。走りかゝつてちやうと切れば。そむけて右に飛びちがふ。取り直して裾をなぎ払へば。踊りあがつて足もためず。中を払へば頭を地に付け。千々に戦ふ大長刀。打ち落されて力なく。組まんと寄れば切り払ふ。すがらんとするも便なし。せん方なくて弁慶は。奇代なる少人かなとて。あきれはてゝぞ立つたりける。 ロンギ地「不思議や御身誰なれば。まだいとけなき姿にて。かほどけなげにましますぞ。委しく名乗りおはしませ。 牛若「今は何をか包むべき。我は源牛若。 地「義朝の御子か。 牛若「さて汝は。 地「西塔の武蔵弁慶なり。互に名乗り合ひ。〳〵。降参申さん御免あれ。少人の御事我は出家。位も氏も健気さも。よき主なれば頼むなり。麤忽にや思し召すらんさりながら。是又三世の奇縁の始め。今より後は主従ぞと。契約堅く申しつゝ。薄衣かづかせ奉り。弁慶も長刀打ちかついで。九条の御所へぞ参りける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第一輯』大和田建樹 著