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花筐

観阿弥作


男 勅使
シテ 照日の前


王(謡なし) 継体天皇
ワキ 供奉官人
ツレワキ 随行者
シテ 前に同じ
ツレ 侍女

地は 前は越前 後は大和
季は 秋九月

男詞「是は越前の国味真野と申す所に御坐候。大跡部の皇子に仕へ申す者にて候。さても都より御使あつて。武烈天皇の御代を。あぢまのゝ皇子に御ゆづりあり。御迎の人々まかり下り御供申し。今朝とく御上洛にて候。さる間此程御寵愛あつて召しつかはれて候。照日の前と申す御方。此程御暇にて御里に御座候ふが。彼御方へ俄の御上洛につき。御玉章と朝毎に御手に馴れし御花筐をまゐらせられ候ふを。某に持ちて参れとの御事にて候ふ程に。只今照日の御里へと急ぎ候。あらうれしや是へ御出で候ふよ。是にて申し候ふべし。いかに申し候。
シテ「何事にて候ふぞ。
男「我君は都より御迎くだり。御位に即かせ給ひ。今朝とく御上りにて候。又是なる御文と御花筐とを。たしかにまゐらせよとの御事にて候。これ〳〵御覧候へ。
シテ「さては我君御位に即かせ給ひ。都への御上り返す〴〵も御めでたうこそ候へとよさりながら。此年月の御名残。いつの世にかは忘るべき。あら御名残をしや。されども思召し忘れずして。御玉章を残し置かせ給ふ事のありがたさよ。急ぎ見まゐらせ候はん。
シテ「我応神天皇の孫苗を継ぎながら。帝位を履む身にあらざれども。天照大神の神孫なれば。毎日に伊勢を拝し奉りし。其神感の至りにや。君臣のえらびに出だされて。いざなはれゆく雲の上。めぐりあふべき月影を。秋の頼みに残すなり。頼めたゞ袖ふれ馴れし月影の。しばし雲井に隔てありともと。
下歌地「書き置き給ふ水茎の。跡に残るぞ悲しき。
上歌「君と住む。程だにありし山里に。〳〵。ひとり残りて有明の。つれなき春も杉間ふく。松の嵐もいつしかに。花の跡とてなつかしき。御花筐玉章を。いだきて里に帰りけり。〳〵。(中入)
ワキ、ツレ次第「君の恵みも高照す。〳〵。紅葉の行幸早めん。
ワキサシ「かたじけなくも此君は。応神天皇五代の御末。大跡辺の皇子と申しゝが。当年御即位をさまりて。継体天皇と申すなり。
ツレワキ「されば治まる御代の御影。日の本の名もあひにあふ。
ワキ「大和の国や玉穂の都に。
ツレワキ「いま宮造り。
ワキ「あらたなり。
ワキ、ツレ歌「万代の。恵みも久し富草の。〳〵。種も栄ゆく秋の空。露も時雨も時めきて。四方に色添ふ初紅葉。松も千年の緑にて。常磐の秋に廻りあふ。行幸の車早めん。〳〵。
後ジテ「いかにあれなる旅人。都への道教へて給べ。
詞「何物狂とや。物狂も思ふ心のあればこそ問へ。など情なく教へ給はぬぞや。
ツレ女「よしなふ人は教へずとも。都への道しるべこそ候へ。あれ御覧候へ雁金の渡り候。
シテ「何雁金の渡るとや。げに今思ひ出だしたり。秋にはいつも雁金の。南へ渡る天つ空。
ツレ「空ごとあらじ君が住む。都とやらんも其方なれば。
シテ「声をしるべの便の友と。
ツレ「我も田面の雁金こそ。つれて越路のしるべなれ。
シテ「其上名におふ蘇武が旅雁。
二人一声「玉章を。つけし南の都路に。
地「我をも共に連れて行け。
シテ「宿かりがねの旅衣。
地「飛びたつばかりの心かな。
シテサシ「君が住む越の白山知らねども。行きてや見まし足引の。
二人「大和はいづく白雲の。高間の山のよそにのみ。見てや止みなん及びなき。雲井はいづく御影山。日の本なれや大和なる。玉穂の都に急ぐなり。
下歌地「こゝは近江の海なれや。みづからよしなくも。及ばぬ恋に浮舟の。
上歌「こがれゆく。旅を忍ぶの摺衣。〳〵。涙も色か黒髪の。あかざりし別路の。跡に心の浮れ来て。鹿の起臥堪へかねて。猶通ひゆく秋草の。野暮れ山暮れ露分けて。玉穂の宮に着きにけり。〳〵。
ワキ「時しも頃は長月や。まだき時雨の色うすき。紅葉の行幸の道の辺に。非形をいましめ面々に。行幸の御先を清めけり。
シテツレ「さなきだに都に馴れぬ鄙人の。女と云ひ狂人と云ひ。さこそ心は楢の葉の。風も乱るゝ露霜の。行幸の先に進みけり。
ワキ「不思議やな其さま人にかはりたる。狂女と見えて見苦しやとて。官人立ちより払ひけり。
詞「そこのき候へ。
ツレ「あら悲しや君の御花筐を打ち落されて候ふは如何に。
シテ「何と君の御花筺を打ち落されたるとや。あら忌はしの事や候。
ワキ「いかに狂女。持ちたる花籠を君の御花筺とて渇仰するは。そも君とは誰が事を申すぞ。
シテ「事あたらしき問事かな。此君ならで日の本に。又異君のましますべきか。
ツレ「我らは女の狂人なれば。知らじと思召さるゝか。かたじけなくも此君は。応神天皇五代の御孫。過ぎし頃まで北国の。あぢまのと申す山里に。
シテ「大跡辺の皇子と申しゝが。
ツレ「今は此国玉穂の都に。
シテ「継体の君と申すとかや。
ツレ「さればかほどにめでたき君の。
シテ「御花筺を恐れもなさで。
ツレ「打ち落し給ふ人々こそ。
シテ「我よりも猶物狂よ。
地「恐しや。〳〵。世は末世に及ぶといへど。日月は地に落ちず。まだ散りもせぬ花筺を。荒けなや荒金の。土に落し給はゞ。天の咎めも忽に。罰あたり給ひて。わが如くなる狂気して。共の物狂と。言はれさせ給ふな。人に言はれさせ給ふな。
シテ「かやうに申せば。
地「かやうに申せば。只現なき花筺の。か毎ゝやおぼすらん。此君いまだ其頃は。皇子の御身なれど。朝ごとの御勤めに。花を手向け礼拝し。南無や天照皇太神宮。天長地久と。称へさせ給ひつゝ。御手を合させ給し。御面影は身に添て。忘れ形見までも。おなつかしや恋しや。
シテ「陸奥の。浅香の沼の花がつみ。
地「且見し人を恋草の。忍ぶもじずり誰故ぞ。乱心は君のため。こゝに来てだに隔てある。月の都は名のみして。袖にも移されず。又手にも取られず。唯徒に水の月を。望む猿の如くにて。叫び伏して泣き居たり。〳〵。
ワキ詞「如何に狂女。宣旨にて有るぞ御車近う参りて。いかにも面白う狂うて舞ひ遊び候へ。叡覧あるべきとの御事にてあるぞ。急いで狂ひ候へ。
シテ「うれしやさては及びなき。御影を拝みや申すべき。いざや狂はん諸共に。
シテツレ一声「行幸に狂ふ囃子こそ。
地「御先を払ふ袂なれ。
シテサシ「かたじけなき御譬へなれども。いかなれば漢王は。
地「李夫人の御別れを歎き給ひ。朝政神さびて。夜のおとゞも徒に。唯思ひの涙御衣の袂をぬらす。
シテ「また李夫人は紅色の。
地「花のよそほひ衰へて。しをるゝ露の床の上。塵の鏡の影を恥ぢて。終に帝に見え給はずして去り給ふ。
クセ「帝ふかく歎かせ給ひつつ。其御かたちを。甘泉殿の壁にうつし。我も画図に立ち添ひて。明暮歎き給ひけり。されどもなか〳〵。御思ひは増されども。物いひかはす事なきを。深く歎き給へば。りせうと申す太子の。いとけなくましますが。父帝に奏し給ふやう。
シテ「李夫人は本はこれ。
地「上界の嬖妾。くわすゐこくの仙女なり。一旦人間に。生るゝとは申せども。終に本の仙宮に帰りぬ。泰山府君に申さく。李夫人の面影を。しばらくこゝに招くべしとて。九華帳の内にして。反魂香を焼き給ふ。夜ふけ人しづまり。風すさましく月秋なるに。それかと思ふ面影の。有るか無きかにかげろへば。猶いやましの思草。葉末に結ぶ白露の。手にも溜らでほどもなく。唯いたづらに消えぬれば。縹緲悠揚としては又。尋ぬべき方なし。
シテ「悲しさのあまりに。
地「李夫人の住みなれし。甘泉殿を立ち去らず。空しき床を打ち払ひ。ふるき衾ふるき枕。ひとり袂をかたしく。
ワキ詞「宣旨にてあるぞ。其花筐を参らせあげ候へ。
シテ「余りのことに胸ふさがり。心空なる花筐を。恥かしながらまゐらする。
ワキ「帝は之を叡覧あつて。疑ひもなき田舎にて。御手に馴れし御花筐。同じく留め置き給ひし。御玉章の恨みを忘れ。狂気を止めよ本の如く。召し使はんとの宣旨なり。
シテ「げにありがたや御めぐみ。直なる御代に帰るしるしも。思へば保ちし筐の徳。
ワキ「かれこれ共に時に逢ふ。
シテ「花の筐の名を留めて。
ワキ「恋しき人の手馴れし物を。
シテ「かたみと名づけそめし事。
ワキ「此時よりぞ。
シテ「はじまりける。
地「ありがたやかくばかり。情の末を白露の。めぐみに洩れぬ花筐の。御かごとましまさぬ。君の御こゝろぞありがたき。
地「御遊も既に時過ぎて。〳〵。今は還幸なし奉らんと。供奉の人々御車やりつゞけ。もみぢ葉散り飛ぶ御先を払ひ。払ふや袂も山風に。さそはれゆくや玉穂の都。さそはれゆくや玉穂の都に。尽きせぬ契りぞ有難き。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第一輯』大和田建樹 著

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