班女
世阿弥作 前 狂言 宿の長 シテ 花子 後 ワキ 吉田少将 トモ 従者 シテ 前に同じ 地は 前は美濃 後は京都 季は 秋 狂言「かやうに候ふ者は。美濃の国野上の宿の長にて候。さても我花子と申す上﨟を持ち参らせて候ふが。過ぎにし春の頃都より。吉田の少将とやらん申す人の。東へ御下り候ふが。此宿に御とまり候ひて。かの花子と深き御契の候ひけるが。扇をとりかへて御下り候ひしより。花子扇に詠め入り。閨より外にいづる事なく候ふほどに。かの人を呼びいだし追ひいださばやと思ひ候。いかに花子。今日よりしてこれには叶ひ候ふまじ。とく〳〵何方へも御いで候へ。 シテ「げにやもとよりも定めなき世といひながら。うきふししげき河竹の。流れの身こそ悲しけれ。 下歌地「わけ迷ふ。ゆくへも知らでぬれ衣。 上歌「野上の里を立ちいでゝ。〳〵。近江路なれど憂き人に。別れしよりの袖の露。そのまゝ消えぬ身ぞつらき。〳〵。(中入) ワキ次第「帰るぞ名残富士の嶺の。〳〵。ゆきて都にかたらん。 詞「是は吉田の少将とはわが事なり。さてもわれ過ぎにし春の頃東に下り。はや秋にもなり候へば。只今都に上り候。 道行「都をば。霞と共に立ちいでゝ。〳〵。しばし程ふる秋風の。おと白河の関路より。また立ち帰る旅衣。浦山すぎて美野の国。野上の里に着きにけり。〳〵。 詞「いかに誰かある。いそぐ間これはゝや美濃の国野上の宿にて候。此所に花子といひし女に契りし事あり。いまだ此ところにあるか尋ねて来り候へ。 トモ詞「畏つて候。花子の事を尋ね申して候へば。長と不和なる事の候ひて。今は此ところには御入りなきよし申し候。 ワキ詞「さては定めなき事ながら。もし其花子帰りきたる事あらば。都へついでの時は申し上せ候へとかたく申しつけ候へ。急ぐ間ほどなく都に着きて候。われ宿願の子細あれば。是より直に糺へ参らうずるにて候。皆々参り候へ。 後ジテ一声「春日野の雪間をわけて生ひいでくる。草のはつかに見えし君かも。 詞「よしなき人に馴衣の。日を重ね月はゆけども。世を秋風のたよりならでは。ゆかりを知らする人もなし。夕暮の雲の旗手に物を思ひ。うはの空にあくがれいでゝ。身を徒になす事を。神や仏も憐みて。 カヽル「思ふことをかなへ給へ。それ足柄箱根玉津島。貴船や三輪の明神は。夫婦男女のかたらひを。まもらんと誓ひおはします。此神々に祈誓せば。などか験のなかるべき。謹上再拝。恋ひすてふ。我名はまだき立ちにけり。 地「人しれずこそ思ひそめしが。 シテ「あら恨めしの人心や。 サシ「げにや祈りつゝ。御手洗川に恋せじと。誰かいひけん空言や。されば人心。まことすくなき濁江の。澄まで頼まば神とても。受け給はぬはことわりや。とにもかくにも人しれぬ。思ひの露の。 下歌地「置きどころ。いづくならまし身の行方。 上歌「心だに。誠の道にかなひなば。〳〵。いのらずとても。神や守らんわれらまで。真如の月はくもらじを。知らでほどへし人心。衣の玉はありながら。恨みありやともすれば。猶おなじ世と祈るなり。〳〵。 トモ詞「いかに狂女。なにとて今日は狂はぬぞ面白うくるひ候へ。 シテ「うたてやなあれ御覧ぜよ今までは。ゆるがぬ梢と見えつれども。風のさそへば一葉もちるなり。たま〳〵心すぐなるを。狂へと仰せある人々こそ。風狂じたる秋の葉の。心もともに乱恋の。あら悲しや狂へとな仰せありさむらひそよ。 トモ「さて例の班女の扇は候。 シテ「うつゝなや我名を班女と呼び給ふぞや。よし〳〵それも憂き人の。形見の扇手にふれて。うちおきがたき袖の露。古事までも思ひぞいづる。 カヽル「班女が閨の内には秋の扇の色。楚王の台の上には夜の琴の声。 地「夏はつる。扇と秋の白露と。いづれか先に起臥の。床冷しや一人寝の。さびしき枕して。閨の月をながめん。 クリ「月重山にかくれぬれば。扇をあげてこれをたとへ。 シテ「花琴上に散りぬれば。 地「雪をあつめて春を惜しむ。 シテサシ「夕べの嵐あしたの雲。いづれか思ひの妻ならぬ。 地「さびしき夜半の鐘の音。鶏籠の山に響きつゝ。明けなんとして別れを催し。 シテ「せめて閨もる月だにも。 地「しばし枕に残らずして。又ひとりねに為りぬるぞや。 クセ「翠帳紅閨に。枕ならぶる床の上。なれし衾の夜すがらも。同穴の跡夢もなし。よしそれも同じ世の。命のみをさりともと。いつまで草の露のまも。比翼連理のかたらひ。其驪山宮のさゝめごとも。誰か聞きつたへて。今の世まで漏らすらん。さるにても我夫の。秋より先に必と。夕べの数は重なれど。あだし言葉の人心。頼めてこぬ夜は積れども。欄干に立ちつくして。そなたの空よとながむれば。夕暮の秋風。嵐山おろし野分も。あの松をこそは音づるれ。我待つ人よりの。音づれをいつ聞かまし。 シテ「せめてもの。形見の扇手にふれて。 地「風の便と思へども。夏もはや杉の窓の。秋風冷かに吹き落ちて。団雪の扇も雪なれば。名を聞くもすさましくて。秋風恨みあり。よしや思へば是もげに。あふは別れなるべし。其むくいなれば今さら。世をも人をも恨むまじ。只おもはれぬ身のほどを。思ひつゞけて独居の。班女が閨ぞさびしき。 地「絵にかける。(舞) シテワカ「月をかくして懐に。もちたる扇。 地「とる袖も三重がさね。 シテ「其色衣の。 地「夫のかねこと。 シテ「かならずと夕暮の。月日もかさなり。 地「秋風は吹けども荻の葉の。 シテ「そよとの便も聞かで。 地「鹿の音虫の音も。かれ〴〵の契。あらよしなや。 シテ「かたみの扇より。 地「かたみの扇より。猶裏表あるものは。人心なりけるぞや。扇とはそらごとや。逢はでぞ恋は添ふ物を。〳〵。 ワキ詞「いかに誰かある。あの狂女が持ちたる扇見たきよし申し候へ。 トモ「いかに狂女。あの御輿の内より。狂女のもちたる扇御覧じたきとの御事にて候。まゐらせられ候へ。 シテ「是は人のかたみなれば。身を離さでもちたる扇なれども。形身こそ今はあだなれ是なくは。忘るゝひまもあらまし物をと。思へどもさすがまた。そふ心地するをり〳〵は。扇とる間も惜しきものを。人に見する事あらじ。 ロンギ地「こなたにも。忘れがたみの言の葉を。磐手の杜の下躑躅。色に出でずはそれぞとも。見てこそ知らめこの扇。 シテ「見てはさて。何の為めぞと夕暮の。月をいだせる扇の絵の。斯くばかり問ひ給ふは。なにの御為なるらん。 地「何ともよしや白露の。草の野上の旅寐せし。契の秋は如何ならん。 シテ「野上とは。野上とは東路の。末の松山波こえて。帰らざりし人やらん。 地「末の松山たつ波の。何か恨みん契りおく。 シテ「形身の扇そなたにも。 地「身にそへ持ちしこの扇。 シテ「輿のうちより。 地「とりいだせば。をりふし黄暮に。ほの〴〵見れば夕顔の。花をかきたる扇なり。此上は惟光に。脂燭めして。ありつる扇。御覧ぜよたがひに。それぞと知られ白雪の。扇のつまのかたみこそ。妹背の中の情なれ。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第一輯』大和田建樹 著