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飛雲


ワキ 熊野の山伏
ツレ 同行の山伏
シテ 樵の翁


ワキ 前に同じ
ツレ 前に同じ
シテ 鬼神

地は 信濃
季は 秋

ワキ次第「遥けき国を三熊野の。〳〵。苔路や旅の始めなる。
詞「是は本山三熊野の山伏にて候。我未だ羽黒山に参らず候ふ程に。唯今羽州に下向仕り候。
道行「行く末も。遠山伏の摺衣。〳〵。遥々来ぬる旅をしぞ。思ひの末も幾日数。幾夜重なる麻衣。木曽の掛橋谷深み。かけぢの末も暮れかゝる。雲の八重山いかばかり。〳〵。
詞「急ぎ候ふ程に。是はゝや木曽路に着きて候。暫く此所に休まうずるにて候。
シテ一声「馴れつゝも。妻木の道の苦しきや。重なる老の坂ならん。
詞「余りに苦しう候ふ程に。薪を下し休まばやと思ひ候。
ワキ詞「不思議やな是なる山賤を見れば。所こそ多きに。分きて紅葉の陰に休む気色。心有り顔にて優しうこそ候へ。
シテ「本より賤しき賤の男の。何の心の候ふべき。彼黒主が歌の心は。薪を負へる山人の。花の木陰に休むけしきを。残し置きたる筆の跡。我等が休むも紅葉の木陰。いたづら事にて候ふなり。
ワキ「実に心ある答へかな。先々紅葉の名所々々。彼方此方に多けれども。彼業平の心には。神代も聞かずと言ひ置きし。
シテ「名にも龍田の紅葉の色。
ワキ「初瀬の山は檜原が木の間に。色洩れ出づる村紅葉。
シテ「又は八塩の岡のもみぢ葉。
ワキ「其外高雄。
シテ「嵐山。
地「色々を。四方に染めなす秋の日の。〳〵。朝には雪としぐれ。夕べには雨とそゝぎ。このもかのもの草木の。はや下染も時過ぎて。百入千入に薄き濃き。梢の秋は面白や。
シテ「白露も。
地「白露も。時雨もいたく漏る山は。下葉残らぬもみぢ葉を。片敷く今宵山伏の。一夜を明かし給はゞ。我も帰りて夜もすがら。夜遊を慰め申さんと。谷の戸深く入りにけり。〳〵。
ワキ「あら恐ろしの気色やな。小夜も半に更方の。
ツレ「月影闇き山中に。
ワキ「行くべき方もあらざれば。
ツレ「あらたなりける夢の告と。
ワキ「頼みを掛けて。
ツレ「読誦する。
二人「南無や開山役の優婆塞。殊には三熊野三所権現。力を添へてたび給へ。
地「不思議や峨々たる石根に。〳〵。黒雲一村起ると見えしが。谷峰一同に響き震動し。磐石を砕き木を折る嵐に。先立ち飛雲の光りの内に。顕はれ出づる鬼神の姿。面をむくべき様ぞなき。
ワキ「東方に降三世明王。
ツレ「南方に軍荼利夜叉明王。
ワキ「西方に大威徳明王。
ツレ「北方に金剛夜叉明王。
ワキ「中央に大日大聖不動明王。
二人「唵呼嚕々々旋荼利摩登枳。唵阿毘羅吽剣蘇嚩訶。
地「鬼神の通力忽ちに。〳〵。明王の繫縛にかゝると見えしが。飛行をなして上らんとすれども。大地に斃れ伏し起きつまろびつ。おのれと身を責め苦しむ気色に。行者の威力いよ〳〵増さり。数珠さら〳〵と押しもんで。見我身者発菩提心。〳〵。聞我名者断悪修善。聴我説者得大智恵。智我心者即身成仏。即身成仏と祈り伏せ。行者は遥かに立ち退けば。
シテ「不思議や今までは。
地「不思議や今までは。大勢力の鬼神と見えしが。立ちどころに弱り伏して。唯茫然と起き上りて。たゞよひ行くと見えつるが。有りつる姿は雲煙。有りつる姿は雲煙と。立ち消えて。鬼神の姿は失せにけり。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第八輯』大和田建樹 著

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