常陸帯
世阿弥作 前 ワキ 鹿島の神職 シテ 里の男 ツレ(一同) 参詣人 ツレ 里の女 後 ワキ 前に同じ シテ 鹿島明神 地は 常陸 季は 正月 ワキ詞「かやうに候ふ者は。常陸の国鹿島の明神に仕へ申す者にて候。さても当社に於て御神事さま〴〵御座候ふ中にも。正月十一日の御神事をば。常陸帯の御神事と申し候。今日に相当りて候ふ程に。急ぎ社中に相触れ。御神事を執り行ひ申さばやと存じ候。 一同次第「是より出でし春の日の。〳〵。宮居の祭いそがん。 シテサシ「頃は正月の十日あまり。霞みあきらかに日落ちて万山紅なり。 一同「実に面白や梅が枝に。来居る鶯春かけて。鳴けどもいまだ薄雪の。朝まつりする神垣や。隔てぬ恵み頼むなり。 下歌「あら有難や此神に。頼みを深くかけまくも。忝や偽りの。無き御心を頼むなり。〳〵。 上歌「常陸なる。鹿島やいづく水上の。〳〵。常世の波も深緑。苔のむすきが岩船の。出でしも遠き代々を経て。国豊かなる今までも。誓ひの船に身を浮けて。御影を頼む春の日の。今日長閑なるあしたかな。〳〵。 ワキ「時を得て今日の手向か神祭る。正月長閑けき空色の。手向も同じ袖はへて。貴賤群集ぞありがたき。 シテ「我は又同じ手向の其内に。わきて心も色ふかき。花田の帯の末長く。契り結ぶの神の御前に。信心をいたして参りけり。 ワキ「よそ目にはそれとも知らぬ思ひ妻。或ひは花の手向草。 シテ詞「又は名におふ常陸帯の。面に一首の歌を書く。同じ世をかけて頼まん常陸帯の。結ぶかひある契りなりせば。 下歌地「神は偽りましまさじ。人やもしも空色の。花田に染める常陸帯の。契りかけたりや。かまひて守り給へや。 上歌「唯頼めかけまくも。〳〵。かたじけなしや此神の。恵みも鹿島野の。草葉に置ける露のまも。惜しめたゞ恋の身の。命のありてこそ。同じ世を頼むしるしなれ。 ツレ女「不思議やな手向も繁き其内に。わきて心も色ふかき。花田の帯のうつくしきを。御前に掛けたる不思議さよ。よりて見れば歌を書きたり。同じ世をかけて頼まん常陸帯の。結ぶかひある契りなりせば。心を知れば恋の歌なり。そも此手向に恋心を。手向けば神も受け給ふべきか。返す〴〵も不審なるぞや。 シテ詞「嬉しやな今までは。つれなかりける御心の。今はやはらぐ言の葉の。結ぶ契りの末頼もしうこそ候へ。 ツレ「そも契りの末の頼もしきとは。心得がたき言葉かな。もし人たがへにてあるやらん。 シテ「何をか包み給ふらん。数書き贈りし玉章の。返事をだにも白露の。身の置き処のなきまゝに。当社に祈りをかけし身の。今日待ちえたる常陸帯の。我にかごとはよもあらじ。 ツレ「そも契りの末の常陸帯とは。御前に見えたる花田の帯に。 シテ詞「書く歌占を一番に。詠ぜん人を妹背ぞと。昔より神の御告なり。 ツレ「昔の事はさもありなん。今は誠を白木綿の。 シテ「神は末世によもあらじ。唯信仰の誠あらば。今も威光はよもつきじ。 ツレ「いやとにかくに言葉づくし。よその人目も恥かしとて。あらざる方へ立ちのけば。 シテ「あら情なの御事や。よし我にこそ疎くとも。 地「神は契りの常陸帯。結びとめさせ給ふべし。恐ろしや疑ひの。神罰あたり給ふな。 ロンギ地「実に疑ひはあらかねの。島根は是か鹿島野の。神の御心頼むなり。ことわり給へ御誓ひ。 シテ「是や此東路の。道の果なる常陸帯の。かごとばかりも逢ひ見んと。人陰にたゝずめば。 地「立ちよる陰も人繁き。手向の袖も様々に。神の御祭あがめよ。 シテ「よしとても今日よりは。人も我もむつび月の。袖ふれて寄り来よ。 地「実にや睦月の空なれや。緑立ちそふ青柳の。 シテ「陰ふむ道に休らひて。 地「貴賤の群集おし隔て。 シテ「後影も見えざれば。 地「せん方もなく。 シテ「日も暮れぬ。 地「とにかくに恋はなど。さのみ心を筑波嶺の。このもかのもに道はあれど。恋の道は迷へり。あらうたて御神。常陸帯かへし給へや。(中入) ワキ「是は不思議の神託とて。宮人数々騒ぎあひ。神慮を疑ふ人あらば。心中になどか知らざらん。もしも包まば重ね〴〵。其神罰は疑ひあるまじ。悔み給ふな人々と。参籠の中に触れければ。 ツレ「思ひ内にあれば色外に顕はれ候ふぞや。あら悲しや恐ろしや。神慮を疑ふ科により。白蛇の責めを蒙るぞや。あら悲しの御事やな。 後ジテ「神は非礼を受け給はず。水上清しや鹿島の波。 地「御殿しきりに鳴動して。 シテ「御神楽の鼓灯の影。 地「和光同塵もかくやらんと。顕はれ給ふぞ忝き。 シテ「我劫初より此かた。此秋津洲に住んで。其かたち八尺の白蛇と現じ。衆生の明闇を守り。陰陽のなかだちと為つて。契りの末や常陸帯の。かごとなき事を守る処に。汝今更疑ふべしや。 地「疑ふべしや心の馬の。隙ゆく道や神の木綿四手。結びとめよや結びとめよや。さてこそ契りの常陸帯。 地「報いは常の世の習ひ。いかに廻るも小車の。すぐなる道はかはらじ。たゞ狂へ〳〵狂女よ。 シテ「そも〳〵恋路に於て。 地「そも〳〵恋路に於て。憐れむべしや。憐れむべしや。陰陽の二神くだつて。天の八衢苔莚の。岩枕を敷島の。波を払ひねぐらを求め。鶺鴒のつばさにたぐへ。東西南北諸天善神。十方国土を治めしより。恋路の源なれや。汝などかは疑ふべきと。神託あらたに聞えしかば。教への契りの末かけて。かたじけなしや常陸帯の。結ぶ契りとなりにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第八輯』大和田建樹 著