雲雀山
世阿弥作 男 姫の従者 シテ 乳母侍従 子方(姫) 中将姫 ワキ 横佩豊成 トモ 同従者 地は 大和 季は 四月 男詞「かやうに候ふ者は。奈良の都横佩の右大臣豊成公に仕へ申す者にて候。さても姫君を一人御持ち候ふを。さる人の讒奏により。大和紀の国の境なる。雲雀山にて失ひ申せとの仰せにて候ふ程に。是まで御供申して候へども。如何にして失ひ申すべきと存じ。柴の菴を結び兎角いたはり申し候。さる程に侍従と申す乳母。春は木々の花を手折り。秋は草花を取りて里に出で。往来の人に是を代なし。彼姫君を過し申し候。今日も侍従を呼び出だし。里へ下さばやと存じ候。如何に申すべき事の候。 シテ詞「何事にて候ふぞ。 男「今日も又里へ御出で候へ。 シテ「さらば姫君に御暇を申し候ふべし。 男「やがて御暇を申し里へ御出で候へ。 シテ「如何に申すべき事の候。今日も里へ出でゝやがて帰り候ふべし。 姫サシ「実にや閑窓に煙絶えて。春の日いとゞ暮し難う。 シテ「弊室に灯消えて。秋の夜猶長し。家貧にしては親知少く。賤しき身には故人疎し。親しきだにも疎くなれば。 下歌地「よそ人はいかで訪ふべき。 上歌「さなきだに狭き世に。〳〵。隠れ住む身の山深み。さらば心の有りもせで。唯道せばき埋草。露いつまでの身ならまし。〳〵。かくて煙も絶え〴〵の。〳〵。光りの陰も惜しき間に。よその情を頼まんと。草の扃を引きたてゝ。又里へこそ出でにけれ。〳〵。(中入) ワキ次第「傾く嶺の雲雀山。〳〵。上るや雲路なるらん。 詞「これは横佩の右大臣豊成とは我事なり。 一同「それ狩場は四季の遊びにて。時折節の興を増す。 歌「梓の真弓春くれば。〳〵。霞む外山の桜狩。雨は降り来ぬ同じくは。濡るとも花の木陰に宿らん。さて又月は夜を残す。雪には明くる交野の御野。禁野につゞく天の川。空にぞ雁の声は居る。〳〵。 シテサシ「五月待つ花橘の香をかげば。昔の人の袖の香ぞする。 詞「実にや昔も君の為め。故ある木の実を集めつゝ。常世の国まで行きしぞかし。我も主君の御為めに。色ある花を手折りつゝ。葉末に結ぶ露の御身を。残しやすると思草。いろ〳〵の。頃を得て。咲く卯の花の杜若。 地「紫染むる山草の。 シテ「色香にめでて花めされ候へ。 地「月は見ん。月には見えじながらへて。〳〵。憂き世を廻る影も羽束師の。森の下草咲きにけり。花ながら刈りて売らうよ。日頃経て。待つ日は聞かず時鳥。匂ひもとめて尋ねくる。花橘や召さるゝ。〳〵。 トモ詞「如何に尋ね申すべき事の候。其花をば何の為めに持ち給ひて候ふぞ。 シテ詞「さん候是は故ある人に参らせん為めに持ちて候。いづれにても候へ色香にめでゝ召され候へ。花檻前に笑んで声いまだ聞かず。鳥林下に鳴いて涙尽き難し。実にも尽きぬは花の種。色々なれや紅は。いづれ深百合深見草。御心寄せにめされ候へとよ。 トモ「実に面白き売物かな。さて其花を売る事は。分きて謂のあるやらん。 シテ「あらむつかしと御尋ねあるや。召されまじくは御心ぞとよ。 地「色々の。〳〵。人の心は白露の。枝に霜は置くとも。猶常磐なれや橘の。目覚草の戯ぶれ。其方の身には何事も。包む事はなくとも。来し方なれや古へをも。忍草を召されよや。忍草を召されよ。 シテ「朝もよい。 地「朝もよい。紀の関守が手束弓。入るさか帰るさか。何れにてもましませ。などや花は召されぬ。あら花すかずの人々や。花すかぬ人ぞをかしき。 トモ詞「さらば此花を買ひ取り候ふべし。又御身の来しかたを懇に御物語り候へ。 シテ「春霞。立つを見捨てゝ行く雁は。 地「花なき里に住みや習へると。心そらなる疑ひかな。 シテサシ「欵冬あやまつて暮春の風に綻び。 地「又躑躅は夜遊の人の折を得て。驚く春の夢の内。胡蝶の遊び色香にめでしも。皆是れ心の花ならずや。 シテ「実に面白き優花の友。 地「春の心や惜しむらん。 クセ「思へ桜色に。染めし袂の惜しければ。衣更へ憂き今日にぞ有りける。それのみかいつしかに。春を隔つる杜若。いつ唐衣遥々の。面影残るかほよ鳥の。鳴きうつる声まで。身の上に聞くあはれさよ。斯くてぞ花にめで。鳥を羨む人心。思ひの露も深見草の。茂みの花衣。野を分け山に出で入れども。さらに人は白玉の。思ひは内にあれど。色になどや顕はれぬ。 シテ「さるにても。馴れしまゝにていつしかに。 地「今は昔に奈良坂や。児の手柏の二面。兎にも角にも故郷の。よそめになりて葛城や。高間の山の嶺続き。こゝに紀の路の境なる。雲雀山に隠れ居て。霞の網にかゝり。目路もなき谷陰の。鵙の草ぐきならぬ身の。露に置かれ雨に打たれ。斯くても消えやらぬ。御身の果ぞ痛はしき。遠近の。(中の舞) シテ「遠近の。 地「たづきも知らぬ山中に。覚束なくも呼子鳥の。雲雀山にや待ち給ふらん。いざや帰らん。〳〵。 ワキ詞「やあ如何に御事は乳母の侍従にてはなきか。豊成をば見忘れてあるか。さても我姫よしなき者の讒奏により失ひしかども。科なき由を聞き後悔すれども叶はず。まことや御事が計ひとして。此雲雀山の谷陰に。柴の菴を結び隠し置きたるとは聞きしかども誠しからぬ所に。今御事を見てこそさてはと思へ。姫は何くにあるぞ包まず申し候へ。 シテ詞「是は仰せとも覚えぬものかな。人のかごとを御用ひありて。失ひ給ひし中将姫の。何しに此世にましますべき。如何に御尋ねありとても。 地「今は御身も夏草の。茂みに交じる姫百合の。知られぬ御身なり。何をか尋ね給ふらん。 ワキ詞「実に〳〵それはさる事なれども。先非を悔ゆる父が心。涙の色にも見ゆらん物を。はや有りどころを申すべし。 シテ「まこと左様に思し召すか。 ワキ「中々諸天氏の神も。正に照覧あるべきなり。 シテ「さらば此方へ御出であれと。其処とも知らぬ雲雀山の。草木を分けて谷陰の。栞を道に足引の。 地「山ふところの空木に。草を結び草を敷きて。四鳥のねぐらに親と子の。思はず帰り逢ひながら。互に見忘れて。唯泣くのみの心かな。実にや世の中は。定めなきこそ定めなれ。夢ならば覚めぬまに。はや疾く〳〵と有りしかば。乳母御手を引き立てゝ。御輿に乗せ参らせて。御悦びの帰るさに。奈良の都の八重桜。咲きかへる道ぞめでたき。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第八輯』大和田建樹 著