豊干
シテ 豊干禅師 ツレ 寒山 ツレ 拾得 ワキ 寒山寺の僧 所 支那 時 冬 ワキ詞「これは唐土寒山寺より出でたる僧にて候。我未だ天台の国清寺を見ず候程に。唯今思ひ立ち国清寺へと急ぎ候。 道行「月は落ち寒鴉枯木におとづれて。〳〵。冷じかりし楓橋を夜深くたどり行く末の。江村の漁火もほのかにて客船に至り山を越え。朝な〳〵の数積る。夕の空は物凄や。〳〵。 シテサシ「面白や花あつて客を迎ふるに似たり。 ツレ「鳥啼いて人を呼ぶが如し。 二人「実に石上に詩を題して。緑苔を払ふ時とかや。 地「米汁を手に携へて。〳〵。花落の塵に交り。白河の波に裳を濡し。万民に面をさらすも恨ならず。法の為なれば身を捨つる。吹く風の寒き山とて入る月に。指をさしても留め難きはつながぬ月日なりけりや〳〵。 ワキ詞「如何にこれなる人々に尋ね申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候か。何事にて候ぞ。 ワキ「天台の国清寺とは此所を申し候か。 シテ「さん候。これこそ天台の国清寺にて候へ。扨御僧はいづくより来り給ひて候ぞ。 ワキ「これは寒山寺より出でたる僧にて候。 シテ「何と御僧は寒山寺より御出でと候や。それにつき思ひ出したる事の候。古此所に寒山拾得と申せし人の。住み給ひたる所なり。 ワキ「実に〳〵これは貧士風狂の士として。 シテ「常の徒にこれをおすべきにあらず。 地「布儒又零落し。〳〵。面貌孤衰して膚ぎやう骨と衰へ。或時は樺皮を冠とし。又或時は大なる木履をはきて風狂の。姿と見れど心は仏意に帰する人とかや〳〵。 ワキ詞「如何に申し上げ候。豊干禅師の旧院はいづくの程にて候ぞ。 シテ詞「豊干禅師の旧院は経蔵の後なり。今は寂として人なし。さりながら此方へ御入り候へ教へ申さう。これこそ豊干禅師の旧院にて候へ。 ワキ「とてもの事に豊干禅師の謂委しく御物語り候へ。 クリ地「扨も豊干禅師と申すは。天台の国清寺に帰す。髪を切つて肩に等し。布裘又像を見す。 サシシテ「人あつて借問すれば。随時の二字を答へて他の語なし。 地「楽んで独穀を碓舂き。則ち菜炊にこれをそふ。 シテ「曽て虎に乗じて松門に入れば。 地「各衆僧を。恐懼する。 クセ「或時豊干あまねく。山行せしに不思議やな。児の泣く声を聞きしかば。立ち寄りて委しく端倪を問ふに舎なうして。孤来と答へ申せば。誠に哀を催し拾ひ得たりと心得。拾得と彼を名づけつゝ。豊干様々養育す。 シテ「かゝりける所に。 地「いづこより来りけん。拾得の如くなる寒山といへる童子来り。常に遊楽のたはむれの。浅からざりし有様は。喝呵大笑して言語も更に常ならず。 シテ詞「其時呂丘といつし人豊干に伺ひ。国清に今顕学の輩ありもやと問ひ給へば。寒山は文珠なり。拾得は普賢なりと答ふ。 地「呂丘此時驚きさわぎ。須臾に堂に入つてこれを礼す。 クセ「寒山拾得は。何故に今更我をば礼し給ふぞと。問ふに呂丘は豊干の教かくぞと語れば。 シテ「二人此時驚きて。 地「入禅の豊干こそ則ち弥陀の化現よと。云ひ捨て閑巌幽崛の内に入りにけり。誠は我は古の寒山拾得よ疑ふなと。いふかと見れば閑巌石根は雲と立ちのぼり。縫目の中に入りにけり〳〵。 ワキ「苔の莚に法をのべ。〳〵。ありつる告をまたんとて。袖を片しき臥しにけり〳〵。 後シテ「一声の山鳥曙雲の外。虎降供して松門に入る。如何に沙門。汝貴き故により。忽ち夢中に豊干向顔をなす。同じく寒山拾得。世上の信たる事を知らせんが為。石の縫目をとく法の。仏体を顕し。給ふべし。 ツレ二人「石に精あり水に音あり。 シテ「虎うそぶけば。風は大虚に渡る。 地「像せんせつたる石崛二つに割るれば普賢文珠顕れ給ふぞ有り難き。 ワキ「不思議やな目のあたりなる御姿を。拝する事の貴さよと。掌を合せて如我昔所願。今者已満足。 地「其時豊干は。虎上より。〳〵。静におりて。菩薩に向ひ。迚姿を顕す上は。法恩微妙の舞楽をなさんと琴瑟鐘鼓。琵琶笋和琴。笙篳篥。虚空に舞楽を奏しけり。 地「舞楽も今は時過ぎて。〳〵。有明がたの尽きぬ名残。白むは東の山葛。かゝる奇特は此寺の。仏法王法伽藍長久五穀成就の其誓願を夢中に見せて。普賢文珠は。二巌に上り。豊干は忽ち弥陀と現じ。西方遥の雲に乗じ。飛行自在を顕し給へば菩薩も獅子象にのりの姿。如来も金色の光を放つて。紫雲の内にぞ入りにける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著、『四流対照 謡曲二百番 下巻』芳賀矢一 訂