伏木曽我
前 ツレ 大磯の虎 ワキ 従者 シテ 猟人 後 ツレ 前に同じ シテ 曽我十郎祐成 地は 駿河 季は 五月 次第「露と消えにし夏草の。〳〵。茂みが原を尋ねん。 ツレ「是は大磯の虎と申す女にて候。さても曽我の祐成過ぎにし五月の末つかたに。富士の裾野にて討たれ給ひぬ。妹脊の中とてなどやらん。唯かりそめの袖の移香。なれし涙も晴れやらぬ。雨もほどふる日数へて。七日々々の弔ひも。名残程なくはや也ぬ。せめては彼兄弟の。果てにし跡を尋ね行きて。一返の念仏をも申さんと。今日思ひ立つ旅衣。袖しをれ行く朝露に。野を分け山をこゆるぎの。急ぐ心ぞあはれなる。 歌「別れし空は五月雨の。別れし空は五月雨の。古屋の軒の忍草。かれ〴〵なりし契りの。末はそことも白雲の。富士の裾野のかりくらの。跡はいづくの程やらん。〳〵。 ワキ詞「御急ぎ候ふ程に。是は早富士の裾野井手の里にてありげに候。又あれより狩人の来り候。暫く御待あつて。所のやうをも御尋ねあらうずるにて候。 シテサシ「夕日西に絶え残つて。鳥の声かすかに。狩場の末もほのかなる。山は富士浦はおりたつ田子の海。 一声「浮島が払ひかねたる草の露。 地「しげみが原の狩衣。 シテ「袂すゞしき気色かな。 ワキ詞「いかに是なる狩人。富士の裾野井手の里とはいづくを申し候ふぞ。 シテ詞「不思議やなさして人をも伴ひ給はで。此山中に分け入り給ふは。いかさま曽我の祐成に情深かりし。大磯の虎御前にてましますな。 ツレ「恥かしや何とて知しめしたるらん。此有様にてそれと名のらば。此世に亡き人までの。名も如何ならんつゝましや。 シテ「いや包めども。袖にたまらぬ白玉は。人を見ぬ目の涙のおもて。 ツレ「袖のけしきも打ち煙る。 シテ「よそめ知らるゝ富士の嶺の。 ツレ「思ひ内にあれば。 地「色外にあらはれて。〳〵。かくれなかりし祐成の。その妻衣と菊の名の。曽我の人々の。御跡ならばいたはしや。此方へ入らせ給へや。御道しるべ申さん。 シテ詞「是こそ富士の裾野井手の里にて候へ。又是なる草の少し見え候ふこそ。祐成兄弟の果て給ひたるしるしの塚にて候へ。よく〳〵御弔ひ候へ。 ツレ「過ぎにし五月の頃なれば。蓬薄のせう〳〵生ひて。いたくも繁らぬ所なれば。疑ふべきにもあらず。我も同じ苔の下に埋もれなば。今更かゝる思ひはせじ。火の中水の底なりとも。此世の中にましまさば。などか言葉をかはさゞらん。 地「黄泉いかなる所ぞや。一たび行きて帰らざる。中有の別れにたへこがれ。悲しび給ふ有様は。よその見る目もいたはしや。げにや胸は富士。袖は清見が関なれや。煙も浪も立たぬ日も。なしとよみしも理や。かくて夕陽たえ〴〵の。雪のけ富士おろしの。音もはやくれはとり。あやしき人と見えつるが。其まゝやがて祐成の。墓所に立ち寄り草むらの。露消え〳〵となりはてゝ。ゆくへも見えずなりにけり。〳〵。(中入) ツレ詞「ふしぎや今の狩人の。かき消すやうになりたるぞや。 歌「是に附けてもなつかしや。〳〵。今宵はこゝに草莚。思ひを述ぶる面影の。添寐の枕片敷きて。夢の契りを待たうよ。〳〵。 後ジテ「松陰の涼しき道はあるなるに。修羅の巷は物うかりけり。いかに虎御前。祐成こそ参りて候へ。 ツレ「ふしぎやな草の枕も露の間の。まどろむ隙もなきうちに。祐成の来り給ふぞや。あらふしぎの事や。 シテ「心ざしの至る時は山川万里も遠からず。ましてやこゝは亡き跡の。 ツレ「うき身の露の置きどころの。 シテ「神さへ鳴りてけうとけれども。 ツレ「それにはよらじ妹脊の契りの。 シテ「たま〳〵あふ夜に。 ツレ「鳴る神も。 地「思ふ中をばよも避けじ。たとひ野の末山の奥の。雲のはてなりとても。君と住まばもろこしの。虎ふす野辺はなほ。草の枕もなつかしや。いつまでも〳〵。長かれかしと思ふ夜の。明け易き頃ぞ恨みなる。 クリ地「げにや輪廻の妄執の。業につたなき恋慕の思ひ。涙にくるゝ暗路のうちに。夢物語申すなり。 シテサシ「むかし在原の業平此東路に下り。 地「時知らぬ雪を。かのこまだらと詠ける。夏野の鹿を取らんとて。富士の裾野に御出であり。 シテ「在鎌倉のともがらは申すにおよばず。 地「遠国遠里の人々まで。雲霞の如く棚引きて。浮島が原の草も木も。靡き洩れたる方もなし。 クセ「我等野に伏し山に隠れ。敵の通路よそながら。見る時もあれば思ひかくれども。猛勢なれば叶はずして。過し〳〵て年月を。故里の曽我に帰りては。唯兄弟。泣くより外の事ぞなき。 シテ詞「かくて七日のかりくらも。名残の日にもなりしかば。あつぱれ敵の祐経に。逢はゞやと便隙を待つ所に。男鹿二つ女鹿一つ。三頭つれて落ち来る。射手も三騎其中に。大柏の水干に。 地「秋二毛の行騰に。烏黒なる馬に乗り。花やかなるは誰やらんと。見れば敵の祐経なり。うれしき心もそゞろぎて。鞭に鐙を揉み合はせ。物あひ近くなりしかば。弓打ち上げて引かんとするに。不運の至りにや。伏木に馬を乗りかけて。屛風をかへしてかつぱところべば。弓手に下り立ちて。手綱にすがり馬を引つ立てゝ。又打ち乗りておくれを見れば。敵はしがきに隔たりて。まぶしの射手に馳せ加はつて。物あひ遥かにのびたりけり。弓折れ矢尽きてせん方もなく。日も既に呉竹の。其夜の夜半ばかりにや。井手の屋形に忍び入りて。やす〳〵と敵を討ち終る。本望遂げし身の。其まゝ土中の屍となつて。裾野の草に埋もれぬれども。名をば富士の嶺の。雲井にあげて。人のほまれは大磯の。虎のうそぶく松の風。虎の嘯く松風や。富士おろしに。夢はさめてぞ明けにける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著