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藤戸

世阿弥作


ワキ 佐々木盛綱
シテ 漁夫の母


ワキ 前に同じ
シテ 漁夫

地は 備前
季は 三月

ワキ次第「春の湊の行末や。〳〵。藤戸の渡りなるらん。
詞「是は佐々木の三郎盛綱にて候。さても今度藤戸の先陣を仕りし御恩賞に。児島を賜はつて候。今日は日もよく候ふ程に。唯今入部仕り候。
道行「秋津洲の。波静なる島廻り。〳〵。松吹く風も長閑にて。実に春めける朝ぼらけ。船も道ある浦づたひ。藤戸に早く着きにけり。〳〵。
詞「如何に誰かある。
トモ「御前に候。
ワキ「皆々訴訟あらんずる者は罷り出でよと申し候へ。
トモ「畏つて候。如何に皆々たしかに聞き候へ。此浦の御主佐々木殿の御入部にて有るぞ。何事も訴訟あらん者は罷り出でゝ申し候へ。
シテ一声「老の波。越えて藤戸の明暮に。昔の春の帰れかし。
ワキ「不思議やな是なる女の。訴訟ありげに某を見てさめ〴〵と泣くは何事にてあるぞ。
シテ「海士の刈る藻に住む虫の我からと。音をこそ泣かめ世をば実に。何か恨みん本よりも。因果の廻る小車の。弥猛の人の罪科は。皆報いぞといひながら。我子ながらも余り実に。科も例も波の底に。沈め給ひし御情なさ。申すにつけて便なけれども。御前に参りて候ふなり。
ワキ「何と我子を波に沈めし恨みとは更に心得ず。
シテ詞「さてなふ我子を波に沈め給ひし事は候。
ワキ「あゝ音高し何と〳〵。
シテ「なふ猶も人は知らじとなふ。中々に其有様を顕して。跡をも弔ひ又は世に。生き残りたる母が身をも。訪ひ慰めて給び給はゞ。少しは恨みも晴るべきに。
下歌「いつまでとてか忍ぶ山。忍ぶかひなき世の人の。あつかひ草も茂き物を。何と隠し給ふらん。
上歌「住み果てぬ。此世は仮の宿なるを。〳〵。親子とて何やらん。幻に生れ来て。別るれば悲しみの。思ひは世々を引く。絆と為つて苦しみの。海に沈め給ひしを。せめては訪はせ給へや。跡弔はせ給へや。
ワキ詞「言語道断。かゝる不便なる事こそ候はね。今は何をか包むべき。其時の有様語つて聞かせ候ふべし。近う寄つて聞き候へ。さても去年三月廿五日の夜に入りて。浦の男を一人近づけ。此海を馬にて渡すべき所やあると尋ねしに。彼者申すやう。さん候河瀬の様なる所の候。月頭には東にあり。月の末には西にあると申す。即ち八幡大菩薩の御告と思ひ。家の子若党にも深く隠し。彼者と唯二人夜にまぎれ忍び出で。此海の浅みを見置きて帰りしが。盛綱心に思ふやう。いや〳〵下郎は筋なき者にて。又もや人に語らんと思ひ。不便には存じゝかども。取つて引き寄せ二刀さし。其まゝ海に沈めて帰りしが。さては汝が子にてありけるよな。よし〳〵何事も前世の事と思ひ。今は恨みを晴れ候ヘ。
シテ詞「さてなふ我子を沈め給ひし。在所は取り分き何処の程にて候ふぞ。
ワキ「あれに見えたる浮洲の岩の。少し此方の水の深みに。死骸を深く隠しゝなり。
シテ「さては人の申しゝも。少しも違はざりけり。あの辺ぞと夕波の。
ワキ「夜の事にて有りし程に。人は知らじと思ひしに。
シテ「やがて隠れはなき跡を。
ワキ「深く隠すと思へども。
シテ「好事門を出でず。
地「悪事千里を行けども。子をば忘れぬ親なるに。失はれ参らせし。子はそも何の報いぞ。
クセ「実にや人の親の。心は闇にあらねども。子を思ふ道に迷ふとは。今こそ思ひ知られたれ。本よりも定めなき。世の理りはまのあたり。老少不定の境なれば。若きを先立てゝ。つれなく残る老鶴の。眠りの内なれや。夢とぞ思ふ親と子の。二十余りの年並。かりそめに立ち離れしをも。待ち遠に思ひしに。又いつの世に逢ふべき。
シテ「世に住めば。憂き節繁き河竹の。
地「杖柱とも頼みつる。海士の此世を去りぬれば。今は何にか。命の露を懸けてまし。ありがひも有らばこそ。とてもの憂き身なる物を。亡き子と同じ道に。なして給ばせ給へと。人目も知らず臥し転び。我子返させ給へやと。現なき有様を。見るこそあはれなりけれ。
ワキ詞「あら不便や候。今は恨みてもかひなき事にて有るぞ。彼者の跡をも弔ひ。又妻子をも世に立てうずるにてあるぞ。まづ我屋に帰り候へ。如何に誰かある。余りに彼者不便に候ふ程に。さま〴〵の弔ひをなし。又今の母をも世に立てうずるにて有るぞ。其由申し付け候ヘ。(中入)
ワキ歌「さま〴〵に。弔ふ法の声立てゝ。〳〵。波に浮寐の夜となく。昼とも分かぬ弔ひの。般若の船のおのづから。其纜を説く法の。心を静め声を上げ。
ワキ「一切有情殺害三界不堕悪趣。
後ジテ「憂しや思ひ出でじ。忘れんと思ふ心こそ。忘れぬよりは思ひなれ。さるにても身はあだ波の定めなくとも。科によるべの水にこそ。濁る心の罪あらば。重き罪科も有るべきに。よしなかりける海路のしるべ。思へば三途の瀬踏なり。
ワキ「不思議やな早明方の水上より。けしたる人の見えたるは。彼亡者もや見ゆらんと。奇異の思ひをなしければ。
シテ詞「御弔ひは有難けれども。恨みは尽きぬ妄執を。申さん為に来りたり。
ワキ「何と恨みを夕月の。其世に帰る浦波の。
シテ詞「藤戸の渡り教へよとの。仰せも重き岩波の。河瀬の様なる浅みの通りを。
ワキ「教へしまゝに渡りしかば。
シテ「弓矢の御名を揚ぐるのみか。
ワキ「昔より今に至るまで。馬にて海を渡す事。
シテ「希代の例なればとて。
ワキ「此島を御恩に賜はる程の。
シテ「御よろこびも我故なれば。
ワキ「如何なる恩をも。
シテ「給ぶべきに。
地「思ひの外に一命を。召されし事は。馬にて海を渡すよりも。是ぞ希代の例なる。さるにても忘れがたや。あれなる浮洲の岩の上に。我を連れて行く水の。氷の如くなる刃を抜いて。胸のあたりを刺し通し。刺し通さるれば肝魂も。消え〳〵となる処を。其まゝ海に押し入れられて。千尋の底に沈みしに。
シテ「をりふし引く汐に。
地「をりふし引く汐に。引かれて行く波の。浮きぬ沈みぬ埋木の。岩のはざまに流れかゝつて。藤戸の水底の。悪龍の水神となつて。恨みを為さんと思ひしに。思はざるに御弔ひの。御法の御船に法を得て。即ち弘誓の。船に浮へば水馴棹。さし引きて行く程に。生死の海を渡りて。願ひのまゝにやす〳〵と。彼岸に至り〳〵て。〳〵。成仏得脱の身となりぬ。成仏の身とぞなりにける。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著

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