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伏見

世阿弥作


ワキ 藤原俊家
シテ 老翁
ツレ 男


ワキ 前に同じ
シテ かざはへの神

地は 山城
季は 秋

ワキ次第「誓ひすぐなる神詣で。〳〵。宮路や絶えせざるらん。
詞「そもそも是は藤原の俊家とは我事なり。さても和州春日の明神は。氏の神にて御坐候ふ程に。此度参詣仕り。七堂の順礼事終り。今は下向道なれば。宇治より川舟に乗り。伏見の社に参詣申さばやと存じ候。
道行「朝日影。さすや三笠の山高み。〳〵。佐保の川霧立ちこめて。梢の秋も猶深き。四方の詠めも時めきて。猶行く末は泉川。河風さむみ宇治の里。過ぐれば是ぞ程もなく。伏見山にも着きにけり。〳〵。
シテ、ツレ一声「異色はしをるゝ露の翁草。花ひとりなる気色かな。
ツレ「是も山路の秋なれや。
二人「伏見の沢の秋の水。
シテサシ「それ世界に於て国の数。其品多き人界なれども。
二人「生まれて安き瑞穂の国。海原や波静かなる八島潟。天照神の御末を受け。代々の天皇国を治め。民静かなる我等までも。皆朝恩の故ぞかし。殊更にこゝは所も九重に。近き伏見の宮造り。古きにかへる政事。道ある御代の其ためし。唯然るべき時とかや。
下歌「幣取り持ちて手向草。いく年々の秋ならん。
上歌「すべらぎの。万代までにまさり草。〳〵。盛り栄ゆく御影山。誰も頼みをかけまくも。かたじけなしや民として。そら恐ろしき地の恩。又天の恐れ数々に。漏るゝ事なき此君の。幾久しさも限られず。
ワキ詞「如何に是なる老人。御事を見れば柴取りやらんと見る所に。まことに盛なる白菊の。異なる花の種と見えたり。此花の在所ゆかしくこそ候へ。
シテ詞「さん候此白菊は。伏見山の谷水の辺に候ひしを。神に手向の為めに手折り持ちて候。
ツレ「うたてやな所からなる花と申し。しかも老人が持ちたる花なるを。などや翁草とは召され候はぬ。御心なきやうにこそ候へ。
ワキ「実に〳〵菊をば翁草とも申すとかや。又所からなる花と申すは。此伏見の里に翁草を。よみたる在所の有るやらん。
シテ「いや此伏見の里を。必ず歌人のよみたる在所にてはなけれども。昔し伏見の翁と云ひし人。一花を捧げ此伏見山に出来す。彼翁国の助けとなりしより。世上に於て其名を得たり。
ツレ「其上伏見の翁の事。禁裏雲井の上人こそ。尤知し召さるべけれ。
シテ「古へ桓武天皇の。此伏見の里に宮作りせしに。翁一人顕はれいでゝ。一首の歌を申しゝかば。帝叡感甚しくして。伏見の翁と召されしより。
ツレ「されば昔の伏見の翁の。嘉例に任せて此里に。
シテ「今もかはらで此尉が。よし有り顔に持ちたる花を。
二人「翁草とは召されずして。唯白菊と御覧ぜば。せめてはまさり草となりとも。など御賞翫なかるらん。
ワキ「実にや名所に住む人とて。世の常ならぬ心言葉。理すぐる有様なり。そも此花を手向とは。如何様当社の為めなるべし。いで此宮居はいづれの神ぞ。
シテ「是は桓武の御願所。伊勢の御札の宮居とて。御名も替はらぬ霊社なり。
ワキ「実に〳〵聞きしにかはらずして。粧ひ異なる宮柱の。
シテ「鳥居も朱の玉垣に。
ワキ「玉の村菊立て添へて。
シテ「神前に捧ぐる手向草の。
ワキ「其草の名も。
シテ「尉が名をも。
地「白菊の。花や伏見の翁草。〳〵。白木綿添へて小忌衣の。宜禰が立ち舞ふ粧ひ。神感にたへぬ納受も。さぞなと思ふ夕神楽。夜を待つか月の都人。まづ御神拝候へ。〳〵。
ワキ詞「猶々伏見の翁の事委しく御物語り候へ。
地クリ「そも〳〵伏見の翁の事。名も久方の天照らす。神の代よりの末受けて。君道を守るためしとかや。
シテサシ「然れば人皇代々を経て。時雨降り置ける楢の葉の。
地「名におふ宮路正しくて。移り行くなり雲の上。花の都の春の空。平安城に治まれり。
シテ「中にも伏見の宮作り。
地「国家を守る神心。知るや阿古根の浦までも。四海の波は静かなり。
クセ「人皇五十代。桓武天皇の御宇かとよ。当国伏し見ての。里に移らせ給ひて。大宮作り始めつゝ。皇居を定め給ひしに。伏見の翁は顕はれて。いざこゝに。我世は経なん菅原や。伏見の里の荒れまくも惜しと。詠めけるとかや。其後巫に託しつゝ。猶重ねての詔。我は神風や。伊勢の阿古根の浦の波。治まる御代の為めならん。伏見に見そなはして。君辺に住むべしとの。御神勅に任せつゝ。大宮作りし給へり。
シテ「そも〳〵伏見といふ事は。
地「まづ我朝の総名にて。伊奘諾伊奘冊の。天の岩座の苔莚に。伏して見てし国なれば。伏見と名づけ給ふなり。さればにや。国富み民豊かにて。誰も我世に合竹の。伏見の里を。守らんとの御誓ひ。百王万歳に。平の都なるべし。
ロンギ地「実にや伏見のいにしへの。〳〵。神の祭の夜神楽に。心を述ぶる有難や。
シテ、ツレ「折節月晴れて。和光の影も明らけき。いにしへの宮はじめ。伏見の夢をおぼすなよ。
地「夢の伏見の宮はじめ。其代を今に顕はして。
二人「磨き添へたる玉殿に。
地「今の翁の。
二人「立つと見れば。
地「天より金色の光りさして。此庭に満ち〳〵て。伏見の里の。あれまくも惜しと思ふ故。又宮作り改めたり。我は伏見の翁なるが。御代を守り申すなり。君は千代ませ千代ませと。申し捨てゝ失せにけりや。申し捨てゝ失せにけり。(中入)
ワキ歌「受くるや神の御心を。〳〵。白木綿花の色々に。神楽の鼓声すみて。月も異なる今宵かな。〳〵。
後ジテ「あら有難の宮作りや。我をば誰とか思ふ。御代を守りの聖賢には。伏見の翁と顕はれ。神道にては伊勢の海。阿古根の浦に宮居して。古今妙文の詠をのべん。かざはへの神とは我事なり。
地「実に有難や今宵しも。空晴れ雲も収まりて。明々とある夜神楽に。
シテ「焚くや庭火も照り添ひて。重なる霜の木綿畳。
地「満てるや花も村菊の。
シテ「紫の雪。
地「緑の空の。
シテ「月澄むや伏見の沢の秋の水。
地「竹田も見えて稲葉の雲の。
シテ「深草の野べ稲荷山の。
地「紅葉の秋も柳桜の。花の都は曇りもなく。見えたり〳〵や。平安城のおもしろや。
ロンギ地「早曙の天の戸に。光りを添へて有明の。月澄み渡るめでたさよ。
シテ「もとよりも。我代は経なん菅原や。〳〵。伏見の里を守らんと。又此山に顕はれ。伏見の翁なるとかや。
地「実に有難き神の代の。昔を今にかへすなる。
シテ「其海原の波の露。
地「こりかたまりし種なれや。
シテ「今もゆるがぬ秋津根の。
地「其神の代の。
シテ「物語り。
地「伊奘諾伊奘冊の。岩枕に臥して。見出だしたりし故に。伏見と此国を。名づけそめられし神の代の。跡明らかに今まで。天下泰平の政事。絶えぬ伏見の翁草の。雪を廻らすや舞の袖。万歳の御代にかへらん。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著

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