二人静
世阿弥作 前 ワキ 勝手の神職 ツレ 菜摘女 シテ 里女 後 ワキ 前に同じ ツレ 前に同じ シテ 静 地は 大和 季は 正月 ワキ詞「是は三吉野勝手の御前に仕へ申す者にて候。さても当社におき御神事さま〴〵御座候ふ中にも。正月七日は菜摘川より若菜を摘ませ神前に備へ申し候。今日に相当りて候ふ程に。女どもに申し付け。菜摘川へ遣はさばやと存じ候。とう〳〵女どもに菜摘川へ出でよと申し候へ。 ツレ一声「見渡せば。松の葉白き吉野山。幾世積りし雪ならん。 サシ「深山には松の雪だに消えなくに。都は野辺の若菜摘む。頃にも今やなりぬらん。思ひやるこそゆかしけれ。 歌「木の芽春雨降るとても。〳〵。猶消え難き此野辺の。雪の下なる若菜をば。今幾日有りて摘まゝし。春立つと。云ふばかりにや三吉野の。山も霞みて白雪の。消えし跡こそ道となれ。〳〵。 シテ詞「なふ〳〵あれなる人に申すべき事の候。 ツレ詞「如何なる人にて候ふぞ。 シテ「三吉野へ御帰り候はゞ言伝て申し候はん。 ツレ「何事にて候ふぞ。 シテ「三吉野にては社家の人。其外の人々にも言伝て申し候。あまりに妾が罪業の程悲しく候へば。一日経書いて我跡弔ひてたび給へと。よく〳〵仰せ候へ。 ツレ「あら恐ろしの事を仰せ候ふや。言伝をば申すべしさりながら。御名をば誰と申すべきぞ。 シテ「まづ〳〵此由仰せ候ひて。もしも疑ふ人あらば。其時妾御事につきて。委しく名をば名乗るべし。かまへてよく〳〵届け給へと。 地「夕風迷ふあだ雲の。憂き水茎の筆の跡。かき消すやうに失せにけり。〳〵。(中入) ツレ詞「かゝる恐ろしき事こそ候はね。急ぎ帰り此由を申さばやと思ひ候。如何に申し候。唯今帰りて候。 ワキ詞「何とて遅く帰りたるぞ。 ツレ「不思議なる事の候ひて。遅く帰りて候。 ワキ「さていかやうなる事ぞ。 ツレ「菜摘川の辺にて。何くともなく女の来り候ひて。あまりに罪業の程悲しく候へば。一日経書いて跡弔ひて賜はれと。三吉野の人。取り分き社家の人々に申せとは候ひつれども。誠しからず候ふ程に。申さじとは思へども。なに誠しからずとや。うたてやなさしも頼みしかひもなく。誠しからずとや。唯よそにてこそ三吉野の。花をも雲と思ふべけれ。近く来ぬれば雲と見し。桜は花に顕はるゝ物を。あら恨めしの疑ひやな。 ワキ詞「言語道断。不思議なる事の候ふ物かな。狂気して候ふは如何に。さて如何やうなる人の付き添ひたるぞ名を名乗り給へ。跡をば懇に弔ひて参らせ候ふべし。 ツレ「何をか包み参らせ候ふべき。判官殿に仕へ申せし者なり。 ワキ「判官殿の御内の人は多き中にも。殊に衣川の御最期まで御供申したりし十郎権頭。 ツレ「兼房は判官殿の御死骸。心静かに取りをさめ。腹切り焰に飛んで入り。殊にあはれなりし忠の者。されどもそれにはなき物を。誠は我は女なりしが。此山までは御供申し。こゝにて捨てられ参らせて。絶えぬ思ひの涙の袖。 地「つゝましながら我名をば。静かに申さん恥かしや。 ワキ詞「さては静御前にてましますかや。静にて渡り候はゞ。かくれなき舞の上手にて有りしかば。舞をまうて御見せ候へ。跡をば懇に弔ひ申し候ふべし。 ツレ「我着し舞の装束をば。勝手の御前に納めしなり。 ワキ「さて舞の衣裳は何色ぞ。 ツレ「袴は精好。 ワキ「水干は。 ツレ「世を秋の野の花づくし。 ワキ詞「是は不思議の事なりとて。宝蔵を開き見れば。実に〳〵疑ふ所もなく。舞の衣裳の候。是を召されてとく〳〵御舞ひ候へ。静御前の舞を御まひ有るぞ。皆々寄りて御覧候へ。 ツレ「実に恥かしや我ながら。昔忘れぬ心とて。 ワキ「さもなつかしく思出の。 ツレ「時も来にけり。 ワキ「静の舞。 ツレ「今三吉野の河の名の。 後ジテ「菜摘の女と思ふなよ。 地「川淀近き山陰の。香もなつかしき袂かな。 二人「さても義経凶徒に準ぜられ。既に討手向ふと聞えしかば。小船に取り乗り。渡辺神崎より。押し渡らんとせしに。海路心に任せず難風吹いて。もとの地に着きし事。天命かと思へば科なかりしも。 地「科有りけるかと。身を恨むるばかりなり。 クセ「さる程に。次第々々に道せばき。御身となりて此山に。分け入り給ふ頃は春。所は三吉野の。花に宿かる下臥も。長閑ならざる夜嵐に。寝もせぬ夢と花も散り。まことに一栄一落。まのあたりなる浮世とて。又此山を落ちて行く。 二人「昔し清見原の天皇。 地「大友の皇子に襲はれて。彼山に踏み迷ひ。雪の木陰を。頼み給ひける桜木の宮。神の宮滝西河の滝。我こそ落ち行け。落ちても波はかへるなり。さるにても三吉野の。頼む木陰の花の雪。雨もたまらぬ奥山の。音さわがしき春の夜の。月は朧にて。猶足引の山深み。分け迷ひ行く有様は。 二人「唐の。佐国は花に身を捨てゝ。 地「遊子残月に行きしも。今身の上に白雪の。花を踏んでは。同じく惜しむ少年の。春の夜も静かならで。さわがしき三吉野の。山風に散る花までも。追手の声やらんと。跡をのみ三吉野の。奥深く急ぐ山路かな。 地「それのみならず憂かりしは。頼朝に召し出だされ。静は舞の上手なり。とく〳〵と有りしかば。心も解けぬ舞の袖。返す〴〵も恨めしく。昔恋しき時の和歌。 二人「賤やしづ。(舞) ワカ「賤やしづ。賤の苧環繰り返し。 地「昔を今になすよしもがな。 二人「思ひかへせばいにしへも。 地「思ひかへせばいにしへも。恋しくもなし憂き事の。今も恨みの衣川。身こそは沈め名をば沈めぬ。 二人「武士の。 地「物毎に浮世のならひなればと。思ふばかりぞ山桜。雪に吹きなす花の松風。静が跡を弔ひ給へ。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著