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弁内侍

ツレ女 梅枝
シテ 弁内侍
男 師直従者
ヲカシ 輿丁
ツレ男 内侍従者
ワキ 楠正行

地は 大和、河内
季は 雑

ツレサシ「是は三位行氏卿の北の御方に仕へ申す。梅が枝と申す女にて候。さても大和の三吉野や。賀名生の皇居におはします。弁の内侍と申す御方は。先帝の宮女なりしが。君雲隠れの其後は。かすかなる御住居にて渡らせ給ふ由聞し召し。せめて慰め申さんと。御迎の其為めに。唯今吉野へ参るなり。そも此内侍は頼みし人の。姪君にてましますが。天が下に並びなき美人にて。呼ばひ渡らぬ人も無きに。かやうに主なき花となり。散りなん後の痛はしさよ。
下歌「事問ひ給ふ叔母君の。心の奥も白糸の。
上歌「乱れがましき世の中に。〳〵。誰を頼みて吉野山。花より外は知る人も。あらぬ浮世の山颪。誰が身の上に散すらん。〳〵。
詞「急ぎ候ふ間。吉野に着きて候。是なるが内侍の御座候ふ処の由申し候。まづ〳〵案内申さうずるにて候。いかに案内申し候はん。叔母君の御方より。梅が枝が御使に参りて候。それ〳〵御申し候へ。
シテ「有りし世の宿の気色を訪ふものは。秋の夜の月庭の松風。実にや木に離るゝ藤。君に後るゝ侍女。あら便りなの我等が有様やな。
ツレ詞「いかに案内申し候。
シテ詞「女性の声して音なふはいかなる人ぞ。
ツレ「是は都の叔母君より。梅が枝が御使に参りて候。
シテ「あら思ひ設けずや。何の為の御使ぞ。殊に梅が枝ならば此方へ来り候へ。
ツレ「是は御声にて候。遥に見奉らず候へば。いよ〳〵およすげおはしまし候。御文の参り候。是々御覧候へ。
シテ「あらうれしや母君には捨てられ。今は叔母君をこそ。親とも思ひ参らするに。御消息の珍しや。まづ〳〵御文を見うずるにて候。遥にこそ渡らせ給へ。山里の御住居。さこそと思ひ参らせて。殊に袂をしぼりあへず。御恋しさのいとせめて。住吉へまうで侍りし程に。道の便りも然るべければ。逢ひ奉らん事を思ひ。河内の国高安に。知る人ありて参り候。待ち奉るばかりなり。かゝる乱れの世の中に。又逢ふ事も片糸の。よるべぞ急いで御出であれ。奥に一首の歌もあり。逢ひ見んと思ふ心を先立てゝ。袖に知られぬ道芝の露。
地「実に珍しやなつかしや。朝夕恋ひし叔母君に。見々えん事のうれしやと。使とつれて侍女二人。〳〵。青侍を二三人。忍びて出づる仮輿の。道のさかしきも。逢ふを便りの心にて。急ぐ行方の道遠し。〳〵。
男詞「や。是は弁の局にてましますか。叔母君はかへり申しの事有りて。まだ住吉へましますなり。あれへ御輿をなし申せ。
シテ「其住吉とは津の国の。青きが原の遠き境。それは遥かの旅の道。かりそめぶりに行きがたし。まづ〳〵吉野へ立ち帰り。重ねてこそは参るべし。早々輿をかきもどせ。
ヲカシ「畏つて候ふとて。お輿を跡へ舁きもどせば。
男「いや是非共にと引つ立てゆく。
ツレ男「狼籍なりと制すれば。
地「大勢中に取り込めて。供の侍切り伏せ。御輿を中に飛ばせつゝ。遥に道を行き過ぐる。〳〵。
ワキ詞「是は河内の国楠帯刀正行にて候。吉野殿へ召され候ふまゝ。唯今参内仕り候。や。向ふより女輿と見えて来り候。皆々道をよけて通し候へ。あら不思議や。今の輿の内にて。女の泣声いかさま子細候ふべし。其輿待てとこそ。其輿の内の女つれて来り候へ。や。是はやんごとなき御方にて候ふが。いかなる謂れにより御愁歎候ふぞ。子細を御物語り候へ。
シテ「是は吉野先帝の宮女。弁の内侍と申す者にて候ふが。叔母君河内の高安とやらんに居ますとて。対面の為めとて行き向ふに。荒けなき男子共まうで来て。わらはが家人を害し。かやうに奪ひ参る程に。いと恐ろしく鬼にとらるゝ心して。かくまで歎き侍ふなり。
ワキ詞「あら御痛はしや。さては弁の内侍にて御入り候ふかや。いかさま子細有るべし。あの狼藉者ども一々召し捕り候へ。さて其迎の女とは汝が事か。いかさま子細有るべし。真直に申し候へ。少しも偽らば重く曲事すべし。急いで語り候へ。
クリ地「今は何をか包み参らせ候ふべき。内侍の御事をいかにして聞き及び給ふらん。高の師直色好み給へば恋ひ渡り。叔母君をすかし給ふ。
ツレサシ「其前度々艶書通ひしかども。
地「更に承け引き給はねば。行氏卿の北の方を。ひたすらにたのむの雁の。数々の所知賜はらん。官位をも進め参らせんと。様々頼ませ給ふにより。今の世の恐ろしさ。又内侍の御為めにも末頼もしくや有るらんと。わらはにも禄賜はり。たばかりごとの御使なり。召し捕り給ふ力士は。師直の御家人御迎の者なり。我等とても中々空恐ろしく思へども。否といはゞ稲舟の。いかなる目にか逢ふべきと。はる〴〵参り向ふなり。此上の身の科を許し給へと手を合す。
シテ「我はかくとも白波の。
地「只盗人の手に渡り。如何なる目にか逢坂の。せきあへぬ涙の色。知ろしめしてかくまで。はからひ給ふ正行は。唯氏の神と覚ゆると。御悦びはことわりや。
ワキ詞「今こそ子細を承りて候へ。誠に参り合ひ奉らずは。敵の手に入り給ふべし。かしこう行き合ひ奉りて候。いかなる者ぞと存じて候ふに。さては師直が下人共にて候ふか。誰かある一々頭を刎ね行路に晒し候へ。早御急ぎ候ふ程に。是は勝手の御宝前にて候。是もひとへに仏神の御加護なれば。此拝殿にて法楽に一指御舞ひ候へ。
シテ「恥かしながら返り申すも。誠に諸神の恵みなれば。昔し静の舞の衣装。烏帽子を暫し仮に着て。五節の袖を思ひ出の。袖を返して舞ふとかや。
地「しづやしづ。(舞)
シテ「しづやしづ。しづのをだまきくり返し。
地「昔を今にくり返し。君を都に還幸なして。我身も供奉し奉らんと。祈る真袖を翻へし。かへる心もいさみある。楠と伴ひ二たび皇居へ。立ち帰るこそうれしけれ。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第二輯』大和田建樹 著

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