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放生川 古名 放生会 又は 八幡

世阿弥作


ワキ 鹿島の神職
シテ 老翁
ツレ 同行者


ワキ 前に同じ
シテ 武内神

地は 山城男山
季は 秋八月

ワキ次第「御影を仰ぐ此君の。〳〵。四方こそ静なりけれ。
詞「抑これは鹿島の神職築波の何某とは我事なり。扨も此度都に上り洛陽の寺社残なく拝み廻りて候。又今日は八月十五日南祭の由承り候間。八幡に参詣申さばやと存じ候。
道行「曇なき。都の山の朝ぼらけ〳〵。気色もさぞな木幡山。伏見の里も遠からぬ鳥羽の細道うち過ぎて。淀の継橋かけまくも。辱しや神祭る。八幡の里に着きにけり〳〵。
詞「急ぎ候程に。これははや八幡の里に着きて候。心静に社参申さうずるにて候。
シテツレ一声「うろくづの。生けるを放つ川波に。月も動くや。秋の水。
ツレ「夕山松の風までも。
二人「神の恵の。声やらん。
シテサシ「それ国を治め人を教へ。善を賞じ悪を去る事。直なる御代のためしなり。
二人「かるが故に知れるはいよ〳〵万徳を得。無智は又恵に叶ひ。おのづから積善の余慶殊に満ち。善悪の影響の如し。かゝる御影の道ひろき。誓の海のうろくづの。生きとし生ける物として。豊なる世に住まふ事。偏に当社の。御利生なり。
歌「仕へて年も千早振る神のまに〳〵詣で来て。此御代に。照る槻弓の八幡山。〳〵。宮路の跡は久堅の。雨壌を湿して枝を鳴さぬ松の風。千代の声のみいやましに。戴きまつる社かな〳〵。
ワキ「如何にこれなる翁に尋ぬべき事の候。
シテ詞「此方の事にて候か何事にて候ぞ。
ワキ「今日は八幡の御神事とて皆々清浄の儀式の姿なるに。翁に限り生きたる魚を持ち。誠に殺生の業不審にこそ候へ。
シテ「実に〳〵御不審は御理。扨々今日の御神事をば。何とか知ろし召されて候ぞ。
ワキ「さん候これは遠国より始めて参詣申して候程に。委しき事をば知らず候。いで此御神事をば放生会とかや申すよのう。
シテ「さればこそ放生会とは。生けるを放つ祭ぞかし。御覧候へ此魚は。生きたる魚を其まゝにて。
ツレ「放生川に放さん為なり。知らぬ事をな宣ひそ。
シテ「其上古人の文を聞くに。
二人「方便の殺生だに。菩薩の万行には越ゆると云ふ。ましてやこれは生けるを放せば。魚は逃れ我は又。かへつて誓の網に漏れぬ。神の恵を仰ぐなり。
ワキ「実に有り難き御事かな。扨々生けるを放つなる。其御謂は何事ぞ。
ツレ「異国退治の御時に。多くの敵を亡し給ひし。幾生の善根のその為に。放生の御願を起し給ふ。
ワキ「謂を聞けば有り難や。扨々生けるを放つなる。川はいづれの程やらん。
シテ詞「御覧候へ此小河の。水の濁も神徳の。
ワキ「誓は清き石清水の。
シテ「末は一つぞ此川の。
ワキ「岸に臨みて。
シテ「水桶に。
地「取り入るゝ。此うろくづを放さんと。〳〵。裳裾も同じ袖ひぢて。結ぶやみづから水桶を。水底に沈むれば。魚は悦び鰭ふるや水を穿ちて岸陰の。潭荷葉動くこれ魚の遊ぶ有り様の。実にも生けるを放つなる御誓あらたなりけり。
ワキ詞「猶々当社の御事懇に御物語り候へ。
地クリ「抑当社と申すは。欽明天皇の昔より。一百余歳の代々を経て。此山に移りおはします。
シテサシ「然るに宗廟の神として。
地「御代を守り国家を助け。文武二つの道ひろく。九重つゞく八幡山。神にも御名は八つの文字。
シテ「それ諸仏出世の本来空。
地「真性不生の道をしめし。八正道を顕し人仏不二の御心にて。正直の頭に。宿り給ふ。
クセ「人の国より我国。他の人よりも我人と。誓はせ給ふ御恵。実に有り難や我等如きのあさましき。迷を照し給はんの。其御誓願まのあたり。行教和尚の御法の袖に影うつる。花の都を守らんと。南の山に澄む月の光も三つの衣手にうつり給へり。さればにや宗廟の。跡明に君が代の。直なる道をあらはし。国富み民の竈まで。賑はふ鄙の貢舟四海の波も静なり。
シテ「利益諸衆生の御誓。
地「二世安楽の。神徳は猶栄ゆくや。男山にし松立てる。梢も草も吹く風は皆実相の響にて。峰の山神楽。其外里神楽懺悔の心夢覚め。夜声もいとゞ神さびて。月かげろふの石清水の。浅からぬ誓かな実に浅からぬ誓かな。
ロンギ地「不思議なりとよ老人よ。〳〵。かほど委しく木綿四手の神の告かや有り難や。
シテ「代々に仕へし古も。二百余歳の春秋を。
地「送り迎へて神徳を請し。身の齢武内の神は我なりと。名宣りもあへず男山。鳩の杖にすがりて山上さして。上りけり。〳〵。(中入)
ワキ歌「猶照せ。代々に替らぬ男山。〳〵。仰ぐ峰より月影の。さやかに出でゝ隈もなく。光も共に夜神楽の。声澄み上る。気色かな〳〵。
後シテ「有り難や百王守護の日の光。ゆたかに照す天が下。いく万代の秋ならん。和光の影も年を経て。神と君とに仕への臣。武内と申す老人なり。
上地「末社は各出現して。今日まち得たる放生の。神の御幸を早むれば。
シテ「御先飛び去る鳩の峰。
地「山下に連る神拝の社人。
シテ「小忌の衣の袖を連ね。
地「千早振なり天少女。
シテ「久堅の。月の桂の男山。
地「さやけき影は。所から。(真の序)
ロンギ地「扨は神代も和歌を上げ。〳〵。舞をまひけるめでたさよ。
シテ「中々小忌の御衣をめし。各舞をまひ給ふ。
地「さらば四季の和歌を上げ。其品替へて舞ひ給へ。
シテ「春は霞の和歌を上げて喜春楽を舞はうよ。
地「扨又夏にかゝりては。如何なる舞をまひ給ふ。
シテ「かたへ涼しき川水に。うかびて見ゆる盃の。傾杯楽を舞はうよ。
地「始めて長き夜も更くる。風の音に驚くは誰が踏む舞の拍子ぞ。
シテ「秋来ぬと。目にはさやかに見えずとも秋風楽を舞はうよ。
上地「日数も積る雪の夜は。
シテ「廻雪の袖を翻し。
地「扨百敷の舞には。
シテ「大宮人のかざすなる。
地「桜。
シテ「橘。
地「諸共に。花の冠を傾けてやうこくよりも立ち廻り。北庭楽を舞ふとかや。さのみは何と語るべき。言葉の花も時を得て。其風猶も盛にて鬼も神も納受する。和歌の道こそ。めでたけれ。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『四流対照 謡曲二百番 下巻』芳賀矢一 訂

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