豊公謡曲 北条
シテ 北条氏政の霊 ワキ 五山の僧 所 相模小田原 時 秋 ワキ詞「是は五山の傍に住居する僧にて候。我小学の年よりも。内典外典に心をかけ候ひしを。近年撥草参玄のために西国行脚仕り候。又当年は東国へと志し候。 サシ「花洛を出でゝ逢坂の。山の東に鳰の海。胆吹颪に荒れ残る。不破の関屋も跡に又。鳴海の浦を打ち過ぎて。三河の国の八橋や。 上歌「猶行末は遠江。〳〵。駿河の富士を北に見て。伊豆の三島を伏し拝み。足柄箱根越え暮れて。小田原近くたどりけり。〳〵。 詞「急ぐ道とはいひながら。大山を越え候へば早暮れに及び候。人に宿を借るまでもなし。是なる辻堂に一夜を明さうずるにて候。幽思極まらず。深巷に人なき処。愁腸絶えんとす。 カヽル「閑窓に月ある時。稀に知る夜半も悲しき松風を。絶えずや苔の下道に。聞くらん人の古へを。思ひやるこそあはれなれ。 シテ詞「なふ〳〵御僧は何くの人にてましませば。程近からん人家をば尋ね給はで。此草深き松陰に。露の宿りをしめ給ふぞ。 ワキ詞「是は捨身の事なれば。樹下石上の住居こそおのづからなる座禅の床なれ。何か此身に厭ふべき。 シテ詞「げにも捨身の御僧の。心の内こそ奇特なれ。さもおろかなる身の上に。真如実相参得の。教を示し給へとよ。 ワキカヽル「もとより心外無別法。満目青山これこそは。教の外の伝へなれ。 シテ「いざさらば立ち寄りて。 ワキ「猶参学を。 シテ「極めんと。 地「岩がねの苔の緑を片敷の。〳〵。袖の白露こぼれそひ。一むら薄ほの〴〵と。月落ちかゝる山の端に。秋風吹きて虫の音を。誘ふは荻の上葉かな。〳〵。 ワキ詞「如何に尉殿。此国は北条家年久しく守護し給ひし処と承り及びて候。北条の氏政父子果て給ひし由来を語つて御聞かせ候へ。 シテ詞「心得申し候。念頃に御物語申さうずるにて候。 クリ地「さても当家は先祖より。東の方を残らずも。従へ来つゝあたりには。恐れをなさぬ人もなく。心にまかせ居たりしに。 シテサシ「秀吉公は日本の。世の政あづかりて。靡かぬ草木もなかりけり。 シテ「氏政も此度は。都に登り礼譲を。なし申さんと定めしを。家中の者にいひなされ。又上洛を違変する。 クセ「然れば都には。此由聞し召されつゝ。相国大に逆鱗の。書状を下し氏政が。父子の頭を刎ん事。踵を廻らすべからずと。書きとゞめけん言の葉に。無念を起し反逆の。色を顕はしにら山や。猶山中を固とし。足柄箱根の切所には。乱杭逆茂木柵を築き。たとひ大軍寄するとも。ゆめ〳〵叶ふべからずと。思ひ定めし半天の。雲を嵐の吹く如く。敵の人数に襲はれて。はかなくなりし氏政が。運の極まる処なり。 シテ「つら〳〵之を案ずるに。 地「昔周の代息侯は。鄭の荘公に。約を違ヘて戦ひしに。息の軍は破れつゝ。息侯滅びける事は。随ふべきに随はず。力も絶えて偽の。報いとこそは聞えけれ。北条も其如く。正理にそむく天命は。後にぞ思ひ知られたる。 ロンギ地「げに老人の夜もすがら。〳〵。古事語り聞きしより。故ある人と覚えたり。其名顕はし給へかし。 シテ「我はもとより埋木の朽ち果てたりし身なれども。夢にまみえて御僧の。教を頼むばかりなり。 地「身は朽ち果てゝ跡にしも。名は残りつゝ武士の。 シテ「八十氏人の氏政が。 地「幽霊なれや。 シテ「今こゝに。 地「忍ぶとすれど名取川。顕れ渡る埋木の。はかなき水のあはれ世の。面影消えて失せにけり。〳〵。 ワキ歌「麻衣草の苔路の露の世に。〳〵。不測不説の理りも。妙なる文字の跡見する。水鳥樹林おのづから。声法事をやなしぬらん。〳〵。 後ジテ「周孔盗跖塵の世の。迷悟善悪諸共に。如夢幻泡影如露亦如電。応作如是観。 詞「さて御僧の示し給ふ。禅法猶も参得の。志にて再来を。いかでか咎め給ふべき。 ワキ「さては氏政の幽霊夢幻に来れるかや。さらば過ぎこし秋の夜の。最期を顕はし見せ給へ。 シテ詞「お僧の仰に叛かじと。語るにつけて無念さの。数も限りもなかりけり。既に官軍寄せくれば。彼山中の固めには。我身に変らぬ一類の。兵撰び入れ置きて。こゝを先途と待ちかけしに。 地「近江の国の中納言秀次の卿。此度の先陣を望み。険難の谷峰いはず攻め登れば。味方の兵ふせぎ矢射る矢下にかゝりて。堀をば飛び越えいかきはね越え。秀次真先かけ給ひ。向ふ者をば切て捨て。逃ぐるを追ひ掛け残さず亡ぼし給ひけり。相国城に入り給ひ。如何に秀次いしくも励ます戦功かな。此軍忠の恩恵に。世の政譲らんと。かたく契約ましませば。秀次の卿拝請し。名をも雲井に揚げ給ふ。其時相国は。勢ひに依つて破れとの。其先言に任せつゝ。今度は相国先掛にて。此小田原に攻め寄する。切つて出でんと思ひしに。同名なりし陸奥守。諫めて曰く此城を。離れて打ち出で給ふならば。雑兵の手にかゝりつゝ。必ず不覚あるべし。我介錯を申さんと。涙を流し申せしを。 シテ「尤と同心し。 地「尤と同心し。自害をせんと剣を抜き。弓手へ指し立て馬手へ引く。うしろより陸奥守。首打ち落し我も又。腹切り果てし事こそは。比類もあらぬ心なれ。是より相国は。関八州従へ。陸奥まで御動座にて。蝦夷が千島に至るまで。心のまゝに治め置き。還御なるこそ奇特なれ。我もお僧の教化にて。現成脱体本分の。道に入りぬる嬉しさよ。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著、『謡曲評釈 第九輯』大和田建樹 著