仏原
世阿弥作 前 ワキ 旅僧 シテ 里女 後 ワキ 前に同じ シテ 仏御前 地は 加賀 季は 秋九月 ワキ次第「よそは梢の秋深き。〳〵。雪の白山尋ねん。 詞「是は都方より出でたる僧にて候。我未だ白山禅定せず候ふ程に。此秋思ひ立ち白山禅定と志して候。 道行「遥々と。越の白山知らざりし。〳〵。其方の雲も天照らす。神の柞の紅葉ばの。誓ひの色もいや高き。峰々早く廻り来て。参詣するぞ有難き。〳〵。 詞「急ぎ候ふ程に。是は早加賀の国仏の原とやらん申し候。日の暮れて候ふ程に。是なる草堂に立ち寄り。一夜を明かさばやと思ひ候。 シテ詞「なふ〳〵あれなる御僧。何とて其草堂には御泊り候ふぞ。 ワキ詞「不思議やな道もなく里もなき方より。女性一人来りつゝ。我に言葉をかけ給ふは。如何なる人にてましますぞ。 シテ「是は此仏の原に住む女にて候。時もこそあれ今宵しも。此草堂に御泊りこそ。有難き機縁にてましませ。今日は思ふ日に当れり。御経を読み仏事をなしてたび給へ。さなきだに五障三従の此身なれば。迷ひの雲も晴れ難き。心の水の濁りを澄まして。涼しき道に引導し給へ。 ワキ「御経を読み仏事をなせと承る。それこそ出家の望みなれ。さて〳〵吊ひ申すべき。亡者は誰にてましますぞ。 シテ「さらば其名を顕はすべし。いにしへ仏御前と申しし白拍子は。此国より出でし人なり。都に上り舞女のほまれ世に勝れたまひしが。後には故郷なればとて此国に帰り。終にここにて空しくなる。跡のしるしも此草堂の。露と消えにし其跡なり。 ワキ「不思議やさてはいにしへの。其名に聞えし仏御前の。亡き跡までも名を留めて。 シテ「仏の原といふ名所も。昔をとゞむる名残なれば。 ワキ「今吊ふも疑ひなき。成仏の縁ある其人の。 シテ「名も頼もしや一仏成道。 ワキ「観見法界。 シテ「草木国土。 二人「悉皆成仏と聞く時は。 地「仏の原の草木まで。〳〵。皆成仏は疑はず。有難や折からの。野もせにすだく虫の音までも。声仏事をやなしぬらん。山風も夜嵐も。声澄み渡る此原の。草木も心あるやらん。〳〵。 ワキ詞「猶々仏御前の御事委しく御物語り候へ。 地クリ「昔し平相国の御時。妓王妓女仏刀自とて。温顔舞曲花めきて。世上に名を得し遊女有りしに。 シテサシ「始めは妓王を召し置かれて。遊舞の寵愛甚しくて。 地「色香を飾る玉衣の。袖の白露起き臥しの。御簾の内を立ち去らで。さながら宮女の如くなりしに。 シテ「思はざるに折を得て。 地「仏御前を召されしより。御心うつりていつしかに。妓王は出だされ参らせて。 シテ「世を秋風の音更けて。 地「涙の雨もをやみもせず。 クセ「実にや思ふ事。叶はねばこそ浮世なれ。我は本より優色の。花一時の盛なれば。散るを何と恨みんや。嵐は吹けども。松は本より常盤なり。いつ歎き。いつ驚かん浮世ぞと。思へばかゝる折節の。来たるこそ教へなれ。しかも迷ひを照らすなる。 シテ「弥陀の御国も其方ぞと。 地「頼みをかけて西山や。浮世の嵯峨の奥深き。草の庵の隠家の。隠れて住むと思ひしに。思ひの外なる仏御前の。様を変へ来りたり。こはそもさるにても。かく捨つる身と為りぬれど。猶も御身の恨めしさの。執心は残るに。そもかゝる心持つ人かや。今こそ誠の。仏にてましませとて。妓王は手を合はせ。感涙を流すばかりなり。 ロンギ地「昔語りはさて置きぬ。さて今跡を吊ひ給ふ。御身如何なる人やらん。 シテ「我は誰とか岩代の。松の葉結ぶ露の身の。行方を何と問ひ給ふ。 地「行方いづくと白雪の。跡を見よとは此原の。 シテ「草の庵はこゝなれや。 地「露の身を置く。 シテ「草堂の。 地「主は仏よといひ捨てゝ。立ち去る影は草衣。尾花が袖の露分け。草堂の内に入りにけり。〳〵。(中入) ワキ歌「松風寒き此原の。〳〵。草の仮寐のとことはに。御法をなして夜もすがら。彼跡吊ふぞ有難き。〳〵。 後ジテ「あら有難の御経やな。早明方にもなるやらん。遠寺の鐘も幽に響き。月落ちかゝる山かづらの。嵐烈しき仮寐の床に。夢ばし覚まし給ふなよ。 ワキ「不思議やな仏の原の草枕に。遊女の影の見え給ふは。如何様きゝつる仏御前の。幽霊にてぞましますらん。 シテ詞「恥かしながら古の。仏といはれし名を便にて。輪廻の姿も歌舞をなす。 ワキ「極楽世界の御法の声。 シテ「仏事をなすや。 ワキ「此原の。 シテ「仏の舞の妙なる袖。 地「草木も靡く気色かな。(序の舞) シテ「ひとり猶仏の御名を尋ね見ん。 地「おの〳〵帰る法の庭人。法の庭人の。 シテ「法の教へも幾程の世ぞや。 地「前仏は過ぎぬ。 シテ「後仏はいまだなり。 地「夢の中間は。 シテ「此世の内ぞや。 地「鐘も響き。 シテ「鳥も音を鳴く。 地「夜半の内なる夢幻の。一睡の内ぞ仏も有るまじ。まして人間も。 シテ「嵐吹く雲水の。 地「嵐吹く雲水の。天に浮べる波の。一滴の露の始めをば。何とかゝへす舞の袖。一歩挙げざる先をこそ。仏の舞とはいふべけれと。うたひ捨てゝ失せにけりや。うたひ捨てゝ失せにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第二輯』大和田建樹 著