舞車
増作 ワキ 里人 シテ 鎌倉の男 ツレ 都の女 地は 遠江 季は 六月 ワキ詞「是は遠江の国見附の国府の者にて候。さても当所の祇園会明日にて候。此祇園の会と申すは。上下の旅人をかたらひ。西方東方を定め。車の上の舞を舞はする法にて候。西方の舞は候へども。東方には無く候ふ程に。路次へ罷り出で旅人を語らはゞやと存じ候。 シテ次第「忘れは草の名にあれど。〳〵。忍ぶは人の面影。 詞「かやうに候ふ者は。鎌倉亀が江が谷に住居する者にて候。さても某一年都に候ひし時。さる女を一人かたらひ下りて候ふを。親にて候ふ者いろ〳〵教訓仕り候へども。いまだ相語らひ候ふ処に。某立ち出で候ふ留守に。彼女を出だして候。さだめて都へ上らぬ事は候ふまじ。跡を尋ねて上らばやと存じ候。急ぎ候ふ間。遠江の国見附の国府につきて候。あら笑止や。日の暮れて候ふはいかに。 ワキ詞「なふ〳〵旅人御宿参らせ候ふべし。 シテ詞「あら嬉しや候。俄に日の暮れて候ふ処に。御宿御貸しあるべきと承り候。やがて参らうずるにて候。 ワキ「此方へ御入り候へ。いかに申すべき事の候。 シテ「何事にて候ふぞ。 ワキ「思し召しよらぬ申し事にて候へども。当所の祇園の会明日にて候。かの祇園会と申すは。上下の旅人をかたらひ。西方東方をさだめ。車の上の舞をまはうずる法にて候ふ程に。そと御舞ひ候へ。 シテ「是は思ひもよらぬ事を承り候ふ物かな。それがしは一期に舞まうたる事はなく候。なか〳〵思ひもよらぬ事にて候。 ワキ「いや何と仰せ候ふとも。舞はせ申さでは叶ひ候ふまじ。 シテ「是は人を尋ねて都へ上る者にて候ふ間。自余の人に仰せられ候へ。 ワキ「人を尋ねて御上り候はゞ。当社の御はからひにて。末はめでたうやがて御逢ひ候べし唯御舞ひ候へ。 地「足いたや旅人の。はや伏柴の鳥の網。のがるべき方もあらばこそ。中々さる者と。見え申すこそ恨みなれ。 ワキ詞「日本一の事にて候。御領掌かしこまり候。やがて御こしらへ候へ。先々西方の舞を御始め候へ。 地クリ「在中将業平。契りを結びし美人の数を尋ぬるに。三千七百三十三人なり。 ツレ「およそ伊勢物語に見えたるは以上十二人なり。 地「第一は紀の有常が娘。第二には忠仁公の御娘。清和天皇の皇后に。染殿の后是なり。 クセ「第五には長柄の卿の御娘。第六は筑紫の染川の里の女なりけり。第十は増尾の卿の妹に。恋死の女是なり。十一は周防の守在原の仲平が娘なりけり。十二には大和の守継蔭が娘に。今の伊勢にてありしが。其名の処を書きかへて。皇后の上童に。まし子の前とぞ召されける。住吉の社に参りて。日数を送り紀念する。懇誓しきりに隙なくは。感応いかで無からんと。頼みを深く掛けまくも。かしこき神の御前にて。静かに法施を参らせ。宮人とおぼしき老体に。此物語を尋ぬれば。 ツレ「いさとよ対面の始めに。 地「伊勢物語の奥儀を。くれ〴〵と語らんは。かつうは空恐ろし。かつうは道の聊爾なりとて。左右なう物をも言はざりけり。美人の中に取りては。何れか劣り勝らん。 ワキ詞「近頃御舞見事にて候。さらば東方の舞を御始めあらうずるにて候。 シテ詞「かしこまつて候。 シテクリ「漢皇三尺の剣。 地「居ながら秦の乱を鎮めたり。 シテ「比叡山延暦寺の座主。法性坊の僧正とて。尊き人おはします。 地「此人は三伏の夏の夜。五更もいまだ明けざるに。九識の窓の前。十乗の床のほとりに。瑜伽の法水をたゝへて。三密の月を澄まし見るに。 クセ「妻戸をほと〳〵と。たゝく声すなり。誰なるらんと思し召し。戸を開き見給へば。過ぎにし二月や。後の五日に。世を早うすと聞えし。菅亟相にておはします。不思議やと思し召し。請じ入れ奉り。深夜の御光臨。何事にかはと有りしかば。菅相答へてのたまはく。濁れる世に生れて。無実の讒言力なし。讒臣の仇を報ぜん為め。雷とならんとき。禅室ばかりこそ。威光めでたう候へ。いかなる勅使なりとも。内裏に参り給はずは。生々世々に此恩を。などかは報ぜざるべき。此御難儀は申しても。余りあるべし。いかなる勅使なりとても。二度までは参るまじ。勅使三度に及ばゝ。普天の下卒土の内。王土にあらずといふ事なし。さのみはいかゞと有りしかば。菅亟相の御色は。事の外に変はりたり。折節御前に。柘榴を置かれたりしを。追つ取り口に含んで。はら〳〵と噛みくだき。妻戸にくわつと吐きかくる。赤き柘榴は忽ちに。火焰となつて妻戸に。三尺ばかり燃えあがる。 シテ「僧正見給ひ。洒水の印を結んで。鑁字の明を誦せしかば。火焰は消えにけりやな。其妻戸は山上の。本坊に今もありと聞ゆる。 ワキ詞「近頃いづれも御舞見事にて候。見物衆の中より今一番と御所望にて候。 ツレ詞「大磯の虎が祐成に名残をしみの所を舞はうずるにて候。 ワキ「何と大磯の虎が祐成に名残をしみの処を舞はうずると仰せられ候ふか。さらば東方へも所望申さうずるにて候。いかに申し候。見物衆の中よりあまりに御舞見事にて候ふ間。今一番と所望申され候。 シテ詞「いや今のならでは存ぜず候。平に御免なり候へ。 ワキ「いかに仰せられ候ふとも。御舞ひ候はでは叶ひ候ふまじ。 シテ「さあらば大磯の虎が祐成に名残を惜しみたる処を舞はうずるにて候。 ワキ「それは西方に舞はうずるよし仰せられ候ふ程に。何事にても候へ別の舞を御舞ひ候へ。 シテ「いやそれならでは存ぜず候。 ワキ「あら笑止や。何とか仕り候ふべき。きつと案じ出だしたる事の候。車を立て並べて相舞に舞はせ申さうずるにて候。 ツレ「是は尤しかるべう候。 ワキ「いかに申し候。西方にも大磯の虎が名残惜しみたる処を舞はうずるよし申され候。然らば車を並べ相曲舞に御舞あれとの御事にて候。 シテ「相舞は猶猶大事にて候へども。御所望にて候ふ間舞はうずるにて候。 ワキ「しかるべう候。とう〳〵御舞ひ候へ。 シテ「思ひもよらぬ分野かな。行方も知らぬ旅人の。相曲舞こそ大事なれ。 ツレ「わらはも何と白拍子。虎御前の別れ身にしみて。我もあら〳〵謡ふべし。 シテ「先づ一声には。 ツレ「虎御前の。 二人一声「花の白菊咲きかへて。 地「いつ曽我菊になりぬらん。 シテ詞「なふ〳〵御行方を尋ねてこそ罷り上り候へ。是は何と申したる御事にて候ふぞ。 ツレ「是は舞の半なり。よその人目も恥かしや。 シテ「実に〳〵舞の半なるを。打ち忘れたる我心。さこそは人の笑ふらめ。 一声「はや舞ひ給へ鸚鵡の袖。 二人「心うれしき袂かな。 地「祇園の祭水無月の。〳〵。既に半も杉の村立。林の鐘の音。名に聞くばかり暮れゆく今日の。祇園の祭の上はあらじと。ほめぬ人こそなかりけれ。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第五輯』大和田建樹 著