松虫
前 ワキ 市人 シテ(男) 客人 ツレ(同) 同じく 後 ワキ 前に同じ シテ 亡霊 地は 摂津 季は 九月 ワキ詞「是は津の国阿部野のあたりに住居仕る者にて候。我此阿部野の市に出でゝ酒を売り候ふ所に。何くとも知らず若き男の数多来り酒を飲み。帰るさには酒宴をなして帰り候。何とやらん不審に候ふ間。今日も来りて候はゞ。如何なる者ぞと名を尋ねばやと存じ候。 シテ、ツレ次第「もとの秋をも松虫の。〳〵。音にもや友を忍ぶらん。 シテサシ「秋の風更け行くまゝに長月の。有明寒き朝風に。 シテ「袖触れ続く市人の。伴なひ出づる道の辺の。草葉の露も深緑。立ち連れ行くや色々の。簔代衣日も出でゝ。阿部の市路に出づるなり。 下歌「遠里ながら程近き。こや住の江の浦伝ひ。 上歌「汐風も。吹くや岸野の秋の草。〳〵。松も響きて沖つ波。聞えて声々友さそふ。此市人の数々に。我も行き人も行く。阿部野の原はおもしろや。〳〵。 ワキ「伝へ聞く白楽天が酒功賛を作りし琴詩酒の友。今も知られて市屋形に。樽をすゑ盃をならべて。寄り来る人を待ち居たり。 詞「如何に人々酒召され候へ。 シテ「我宿は菊売る市にあらねども。四方の門辺に人さわぐと。よみしも古人の心なるべし。如何に人々面々に。霊酒を汲みてもてなし給へ。 ワキ「又彼人の来れるぞや。 詞「今日はいつより酒をたゝへ。遊楽遊舞の和歌を詠じ。人の心を慰め給へ。早くな帰り給ひそとよ。 シテ「何我を早くな帰りそとよ。 ワキ「中々の事暮過ぐるとも。月をも見捨て給ふなよ。 シテ「仰せまでもなし何とてか。此酒友をば見捨つべき。古き詠にも花のもとに。 ワキ「帰らん事を忘るゝは。 シテ「美景によると作りたり。 二人「樽の前に酔をすゝめては。是れ春の風ともいへり。 地「今は秋の風。暖め酒の身を知れば。薬と菊の花のもとに。帰らん事を忘れ。いざや御酒を愛せん。たとひ暮るゝとも。〳〵。夜遊の友に馴衣の。袂に受けたる月影の。うつろふ花の顔ばせの。盃に向へば。色も猶まさり草。千年の秋をも限らじや。松虫の音も尽きじ。いつまで草のいつまでも。変はらぬ友こそは。買ひ得たる市の宝なれ。〳〵。 ワキ詞「如何に申し候。唯今の言葉の末に。松虫の音に友を忍ぶと承り候ふは。如何なる謂にて候ふぞ。 シテ詞「さん候それに付いて物語の候ふ語つて聞かせ申し候ふべし。 ワキ「さらば御物語り候へ。 シテ「むかし此阿部野の松原を。ある人二人連れて通りしに。折節松虫の声おもしろく聞えしかば。一人の友人。彼虫の音を慕ひ行きしに。今一人の友人。やゝ久しく待てども帰らざりし程に。心もとなく思ひ尋ね行き見れば。彼者草露に臥して空しくなる。死なば一所とこそ思ひしに。こはそも何と云ひたる事ぞとて。泣き悲しめどかひぞなき。 地「其まゝ土中に埋木の。人知れぬとこそ思ひしに。朽ちもせで松虫の。音に友を忍ぶ名の。世に漏れけるぞ悲しき。今も其。友を忍びて松虫の。〳〵。音に誘はれて市人の。身を変へて亡き跡の。亡霊こゝに来りたり。恥かしや是までなり。立ちすがりたる市人の。人かげに隠れて。阿部野の方に帰りけり。〳〵。 ロンギ地「不思議やさては此世にも。なき影すこし残しつゝ。此程の友人の。名残を暫し留め給へ。 シテ「折節秋の暮。松虫も鳴く物を。我をや待つ声ならん。 地「そも心なき虫の音の。我を待つ声ぞとは。誠しからぬ言葉かな。 シテ「虫の音も。〳〵。忍ぶ友をば待てばこそ。言の葉にもかゝるらめ。 地「実に〳〵思ひ出だしたり。古き歌にも秋の野に。 シテ「人松虫の声すなり。 地「我かと行きて。いざとぶらはんと。思し召すか人々。有難や。是ぞ誠の友を。忍ぶぞよ松虫の。音に伴なひて帰りけり。虫の音に連れて帰りけり。(中入) ワキ歌「松風寒き此原の。〳〵。草の仮寐のとことはに。御法をなして夜もすがら。彼跡とふぞ有難き。〳〵。 後ジテ「あら有難の御弔ひやな。秋霜に枯るゝ虫の音聞けば。閻浮の秋に帰る心。猶郊原に朽ち残る。魄霊是まで来りたり。うれしく弔ひ給ふ物かな。 ワキ「はや夕影も深緑。草の花色露深き。其方を見れば人影の。幽に見ゆるは有りつる人か。 シテ詞「中々なれやもとよりの。昔の友を猶忍ぶ。虫の音ともに顕はれて。手向を受くる草衣の。 ワキ「浦は難波の里も近き。 シテ「阿部の市人馴れ〳〵て。 ワキ「弔ふ人も。 シテ「弔はるゝ我も。 ワキ「いにしへ今こそ。 シテ「かはれども。 地「故郷に。住みしは同じ難波人。住みしは同じ難波人。蘆火焼く屋も市屋形も。かはらぬ契りを忍草の。忘れ得ぬ友ぞかし。あらなつかしの心や。 地クリ「忘れて年を経し物を。又いにしへに帰る波の。何はの事のよしあしも。実に隔てなき友とかや。 シテサシ「朝に落花を踏んで相伴なつて出づ。 地「夕べには飛鳥に従つて一時に帰る。 シテ「然れば花鳥遊楽の瓊莚。 地「風月の友にさそはれて。春の山辺や秋の野の。草葉にすだく虫までも。聞けば心の友ならずや。 クセ「一樹の陰の宿りも。他生の縁と聞く物を。一河の流れ汲みて知る。其心浅からめや。奥山の。深谷の下の菊の水。汲めども汲めどもよも尽きじ。流水の盃は。手まづさへぎれる心なり。されば廬山のいにしへ。虎渓を去らぬ室の戸の。其戒めを破りしも。志を浅からぬ。思ひの露の玉水の。けいせきを出でし道とかや。 シテ「それは賢き古への。 地「世もたけ心さえて。道ある友人の数々。積善の余慶家々に。普く広き道とかや。今は濁世の人間。ことに拙なき我等にて。心もうつろふや。菊をたゝへ竹葉の。世は皆酔へり。さらば我ひとり醒めもせで。万木皆紅葉せり。唯松虫の独音に。友を待ち酔ひをなして。舞ひ奏で遊ばん。 シテ「盃の。雪を廻らす花の袖。(舞) ワカ「おもしろや。千草にすだく虫の音の。 地「機織る音の。 シテ「きりはたりちやう。 地「きりはたりちやう。つゞりさせてふ蛬蜩。色々の色音の中に。わきて我忍ぶ松虫の声。りん〳〵りん〳〵として。夜の声めい〳〵たり。 地「すはや難波の鐘も明方の。あさまにもなりぬべし。さらばよ友人名残の袖を。招く尾花のほのかに見えし跡絶えて。草茫々たる朝の原に。〳〵。虫の音ばかりや残るらん。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第五輯』大和田建樹 著