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松浦鏡

世阿弥作


ワキ 旅僧
シテ 里女


ワキ 前に同じ
シテ 松浦佐用姫

地は 肥前
季は 冬

ワキ次第「もろこし舟の名をとめし。〳〵。松浦は何くなるらん。
詞「是は行脚の僧にて候。我東国より都に上り。又西国修行と志し候ふ程に。筑紫に下り博多の浦に逗留仕りて候。肥前の国松浦潟は聞えたる名所にて候へば。急ぎ尋ね行き一見せばやと存じ候。
道行「箱崎や。明け行く空の旅衣。〳〵。げに不知火の筑紫潟。わだの原ゆく沖つ舟。汐路遥かの浦づたひ。松浦潟にも着きにけり。〳〵。
詞「是は早松浦の浦にて候。委しくは知らねども。山の粧ひ海の景色。世に勝れて面白く見所多く候。折節雪降りて山河草木色めきたり。あれに釣人の見えて候。立ち寄り此処の有様尋ねばやと思ひ候。
シテ一声「松浦潟。浦山かけて降る雪の。波も曇るや汐煙。渚に拾ふ玉島の。川風さゆる袂かな。
サシ「玉島の。此川上に家はあれど。さながら浦に住居して。誰としもなき釣の糸。波より汐に引かれて。身は浮舟の友千鳥。跡も渚に通ひ来て。海士乙女等が麻衣。しほたれなるゝばかりなり。
下歌「袖とふ風も折々の。便りなりけり松浦潟。
上歌「ながめよと。思はずしもや帰るらん。〳〵。月待つ波の海士小舟。心なき身にだにも。ながめは多きけしきにて。かゝる思ひの有るぞとも。知らで慰む夕べかな。〳〵。
ワキ詞「如何に釣人に尋ね申すべき事の候。是は遠国の沙門なるが。抖擻行脚に是まで来りたり。是は名にきゝし松浦潟候ふよなふ。
シテ「さん候此浦は古へよりの名所なり。海山川に至るまで。名に流れたる名所にて候ふ御尋ね候へ。
ワキ「是なる流れをば何と申し候ふぞ。
シテ「是こそ松浦川にて候へ。此湊にては佐用姫も。鏡を抱きて身を投げゝるとかや。其魄霊残つて今も鏡の宮とかや。参りて拝ませ給へとよ。
ワキ「げに〳〵松浦の鏡の宮とは。佐用姫の霊魂なるべし。さてあの雪の積りたるは。松浦山候ふか。
シテ「あれは松浦山れいきん山と書きて。ひれふる山と読むなり。抑此山をひれふる山と申す事は。昔し狭手彦と言ひし人の。君の宣旨に従ひて。唐使の舟出せし時。佐用姫と聞えし遊女。舟の跡を慕ひ。あの山の上に登つて。沖行く舟を見送りつゝ。衣の領巾を上げ袖をかざして招きしが。舟影遠くなるまゝに。招き呼ばゝりて臥しまろびしを。ひれふる山とは申すなり。然れば古人山上の憶良がよみし詠歌にも。海原の沖ゆく舟を帰れとや。ひれ振らしけん松浦佐用姫。
地「げにや今見るも。ひれふる雪の松浦山。〳〵。跡を知れとやよみ置きし。其歌人の名を聞くも。山の上の憶良なれば。ひれふるとよむ歌の。よみ人知るも面白や。さぞな詠めせし。沖つ波間に行く舟の。絶々なりし古へも。今に知らるゝあはれかな。〳〵。
ワキ詞「嬉しくも謂ども承り候ふ物かな。とてもの御事ならば。佐用姫狭手彦の御謂れをも委しく御物語り候へ。
シテ「さらば語り参らせ候はん。
クリ「抑ふるき世語を。語るに付けて身の上に。麻生の松原待つ事の。猶あり顔なる世の中なり。
サシ「昔し上代の事かとよ。狭手彦と言ひし遣唐使。
地「大君の勅に随ひて。此松浦潟に下り。暫しの旅宿有りし時。国の釆女の色に染む。花の香衣袖ふれて。宿も一夜の仮枕。
シテ「あだし契と思へども。
地「幾夜の数とも知らざりけり。
クセ「其名を。佐用姫と聞くからに。小夜の寝覚の睦言も。尽きぬ心の程見えて。山風吹き行く松浦潟。心づくしの秋なれや。木の間の月もほのかなる。朝顔朝寝髪。打ちとくる共寝なりけり。かくて契りも程経るや。時節も早く日頃経て。唐舟の纜を。解くや吉き日の門出とて。直に旅宿を出で給へば。
シテ「佐用姫いつしかきぬ〴〵の。
地「恨みをそへて松浦潟。前の渚に立つ波の。声も惜しまず鳴く田鶴の。蘆辺にさすらひ松が根の。磯枕草莚。しきりに臥し沈みつゝ。れいきん山にあらねども。こゝもひれふる有様を。松浦姫といはれしも。佐用姫が異名なり。げに恥かしき世語り。
ワキ「げに〳〵れいきん山の謂れ委しく承り候ひぬ。さて此鏡の謂れ何事にて候ひけるぞ。
シテ「此鏡は狭手彦の置きし形見なり。其後神とは現れ給へども。誠の鏡は御神体なり。如何に御僧。わらはゝ受衣の望み有り。其御袈裟を授け給へとよ。
ワキ「始めより様ある人と見えつる上。受衣の望と承るは。やすき間の事なりとて。此袈裟を授け奉れば。
シテ「わらはゝ御袈裟を授かりつゝ。掌を合はせ座をなして。善哉解脱ふくむさうふく。てんえいぶによかいらいきやうくわう。としよじゆしやう。
地「げに有難き法は得つ。此御布施は狭手彦の。形見の鏡を見せ申さん。暫く待たせ給へとよ。誠は我は佐用姫が。れいきん山に澄む月の。雲隠れにぞなりにける。〳〵。(中入)
ワキ「始めより不思議なりつる天乙女。かの小夜姫の幽霊かや。いざや今宵は浦に伏して。教への如くもしは又。彼神鏡を拝むやと。
歌「夜もすがら。月の真澄の水鏡。〳〵。影を移すや松浦川。緑の空もさえ渡り。風も更けゆく旅寐かな。〳〵。
後ジテ「恋は山。涙は海となるものを。又いつの世を松浦潟。人知れず袖に涙の騒ぐかな。
一声「唐舟も寄せやせん。
地「西に山なき有明の。
シテ「松浦の朝日鏡のおもて。
地「向ふ光も心曇らば。我影ながら恥かしやな。
シテ「行く年の惜しくもあるかな増鏡。見る影さへに暮れぬと思へば。
ワキ「不思議やな此神鏡を拝すれば。向ふ面は移らずして。さもなまめける男体の。冠正しき面色なり。こはそも如何なる御事ぞ。
シテ「恥かしや其執心の報えばこそ。契りも早く狭手彦の。恨みは猶も増鏡に。形を残して捨てやらぬ。恋慕の罪に沈めとや。
ワキ「是は愚の御事かな。煩悩即菩提心。其一念をひるがへし。はや〳〵仏果を得給ふべし。
シテ「承り候ふ去りながら。今宵一夜の懺悔を晴らし。昔の有様見せ申さんと。
ワキ「いふかと見れば沖に出づる。唐舟に時移る。
シテ「声は波路に響き合ひて。
ワキ「松浦の川瀬。
シテ「和の汐合。
ワキ「千鳥。
シテ「鷗の。
ワキ「立つけしきに。
地「海山も震動して。〳〵。心も暗れてひれ臥すや。地によつて倒れ。地によつて立ち上り。跡を見れば。舟は煙波に遥なり。せんかた並木の。松浦山の上に。登りて声を上げ。
シテ「なふ其舟しばし。
地「其舟しばし留めよ〳〵と。白妙のひれを。上げては招き。かざしては招き。焦れ堪へかねてひれふる姿は。げにもひれふる山なるべし。
シテ「世の中は。何に喩へん朝ぼらけ。漕ぎ行く舟の。跡の白波そのまゝに。狂乱となつて。
地「狂乱となつて。れいきん山を下りて。磯辺にさすらひけるが。形見の鏡を身に添へ持ちて。塵を払ひ影を移して。見る程に〳〵。思へば恨めし形見こそ。今はあだなれ是なくはと。思ひ定めて海士の小舟に。こがれ〳〵出でゝ。鏡をば胸に抱き。身をば波間に捨舟の。上よりかつぱと身を投げて。千尋の底に沈むと見えしが。夜も白々と明くる松浦の。浦風や夢路を覚ますらん。浦風や夢を覚ますらん。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第五輯』大和田建樹 著

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