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通盛

井阿弥作


ワキ 旅僧
シテ 老翁
ツレ 老女


ワキ 前に同じ
シテ 平通盛
ツレ 小宰相局

地は 阿波
季は 秋

ワキ詞「是は阿波の鳴門に一夏を送る僧にて候。さても此浦は平家の一門はて給ひたる所なれば痛はしく存じ。毎夜此磯辺に出でゝ御経を読み奉り候。唯今も出でゝ弔ひ申さばやと思ひ候。
歌「磯山に。暫し岩根の待つ程に。〳〵。誰が夜舟とは白波に。楫音ばかり鳴門の。浦静かなる今宵かな。〳〵。
ツレサシ「すは遠山寺の鐘の声。此磯近く聞え候。
シテ「入相ごさめれ急が給へ。
ツレ「程なく暮るゝ日の数かな。
シテ「昨日過ぎ。
ツレ「今日と暮れ。
シテ「明日またかくこそ有るべけれ。
ツレ「されども老に頼まぬは。
シテ「身の行末の日数なり。
二人一声「いつまで世をばわたづみの。あまりに隙も波小舟。
ツレ「何を頼みに老の身の。
シテ「命の為めに。
二人「使ふべき。
地「憂きながら。心の少し慰むは。〳〵。月の出汐の海士小舟。さも面白き浦の秋の気色かな。所は夕浪の。鳴門の沖に雲つゞく。淡路の島や離れ得ぬ。浮世の業ぞ悲しき。〳〵。
シテサシ「暗濤月を埋んで清光なし。
ツレ「舟に焚く海士の篝火更け過ぎて。
二人「苫よりくゞる夜の雨の。蘆間に通ふ風ならでは。音する物も波枕に。夢か現か御経の声の。嵐につれて聞ゆるぞや。楫音を静め唐櫓を抑へて。聴聞せばやと思ひ候。
ワキ「誰そや此鳴門の沖に音するは。
シテ「泊り定めぬ海士の釣舟候ふよ。
ワキ「さもあらば思ふ子細有り。此磯近く寄せ給へ。
シテ「仰せに随ひさし寄せ見れば。
ワキ「二人の僧は巌の上。
シテ「漁の舟は岸の陰。
ワキ「蘆火の影を仮初に。御経を開き読誦する。
シテ「有難や漁する。業は蘆火と思ひしに。
ワキ「善き灯に。
シテ「鳴門の海の。
二人「弘誓深如海。歴劫不思議の奇縁によりて。五十展転の随喜功徳品。
下歌「実に有難や此経の。面ぞ闇き浦風も。蘆火の影を吹き立てゝ。聴聞するぞ有難き。
上歌「龍女変成と聞く時は。〳〵。姥も頼もしや。祖父はいふに及ばず。願ひも三つの車の。蘆火は清く明かすべし。猶々御経遊ばせ。〳〵。
ワキ詞「あら嬉しや候。火の光りにて心静かに御経を読み奉りて候。先々此浦は。平家の一門果て給ひたる所なれば。毎夜此磯辺に出でゝ御経を読み奉り候。取り分き如何なる人此浦にて果て給ひて候ふぞ。委しく御物語り候へ。
シテ詞「仰せの如く或は討たれ。又は海にも沈み給ひて候。中にも小宰相の局こそ。や。諸共に御物語り候へ。
ツレ「さる程に平家の一門。馬上を改め。海士の小船に乗り移り。月に棹さす時もあり。
シテサシ「こゝだにも都の遠き須磨の浦。
二人「思はぬ敵に落されて。実に名を惜しむ武士の。磤馭盧島や淡路潟。阿波の鳴門に着きにけり。
ツレ「さる程に小宰相の局乳母を近づけ。
二人「如何に何とか思ふ。我頼もしき人々は都に留まり。通盛は討たれぬ。誰を頼みてながらふべき。此海に沈まんとて。主従泣く〳〵手を取り組み舟端に臨み。
ツレ「さるにてもあの海にこそ沈まうずらめ。
下歌地「沈むべき身の心にや。涙の兼ねて浮ぶらん。
上歌「西はと問へば月の入る。〳〵。其方も見えず大方の。春の夜や霞むらん。涙も共に曇るらん。乳母泣く〳〵取り付きて。此時の物思ひ。君一人に限らず。思し召し止り給へと。御衣の袖に取り付くを。振り切り海に入ると見て。老人も同じ満汐の。底の水屑となりにけり。〳〵。(中入)
ワキ歌「此八軸の誓ひにて。〳〵。一人も洩らさじの。方便品を読誦する。
ワキ「如我昔所願。
後ジテ「今者已満足。
ワキ「化一切衆生。
シテ「皆令入仏道の。
地「通盛夫婦。御経に引かれて立ち帰る波の。
シテ「あら有難の御法やな。
ワキ「不思議やなさもなまめける御姿の。波に浮びて見え給ふは。いかなる人にてましますぞ。
ツレ「名ばかりはまだ消え果てぬあだ波の。阿波の鳴門に沈み果てし。小宰相の局の幽霊なり。
ワキ「今一人は甲冑を帯し。兵具いみじく見え給ふは。いかなる人にてましますぞ。
シテ「是は生田の森の合戦に於て。名を天下に掲げ。武将たつし誉れを。越前の三位通盛。昔を語らん其為に。是まで顕はれ出でたるなり。
地サシ「そも〳〵此一の谷と申すに前は海。上は嶮しき鵯越。まことに鳥ならでは翔り難く獣も。足を立つべき地にあらず。
シテ「唯幾度も追手の陣を心もとなきぞとて。
地「宗徒の一門さし遣はさる。通盛も其随一たりしが。忍んで我陣に帰り。小宰相の局に向ひ。
クセ「既に軍。明日にきはまりぬ。痛はしや御身は。通盛ならで此うちに。頼むべき人なし。我ともかくもなるならば。都に帰り忘れずは。亡き跡とひてたび給へ。名残惜しみの御盃。通盛酌を取り。指す盃の宵の間も。転寐なりし睦言は。たとへば唐の。項羽高祖の攻を受け。数行虞氏が涙も。是にはいかで増さるべき。灯闇うして。月の光りにさし向ひ。語り慰む所に。
シテ「舎弟の能登の守。
地「早甲冑をよろひつゝ。通盛は何くにぞ。など遅なはり給ふぞと。呼ばゝりし其声の。あら恥かしや能登の守。我弟といひながら。他人より猶恥かしや。暇申してさらばとて。行くも行かれぬ一の谷の。所から須磨の山の。後髪ぞ引かるゝ。
シテ詞「さる程に合戦も半なりしかば。但馬の守経政も早討たれぬと聞ゆ。
ワキ「さて薩摩の守忠度の果はいかに。
シテ「岡部の六弥太忠澄と組んで討たれしかば。あつぱれ通盛も名ある侍もがな。討死せんと待つ所に。すはあれを見よ好き敵に。
地「近江の国の住人に。〳〵。木村の源五重章が。鞭を上げて駆け来る。通盛少しもさわがず。抜き設けたる太刀なれば。兜の真向ちやうと打ち。返す太刀にてさし違へ。共に修羅道の苦を受くる。憐みを垂れ給ひ。よく弔ひてたび給へ。
地「読誦の声を聞く時は。〳〵。悪鬼心を和らげ。忍辱慈悲の姿にて。菩薩もこゝに来迎す。成仏得脱の。身となり行くぞ有り難き。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第七輯』大和田建樹 著

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