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御裳濯

世阿弥作


ワキ 官人
シテ 老翁
ツレ 男


シテ 興玉神

地は 伊勢
季は 五月

ワキ次第「山も内外の神詣で。〳〵。二見の浦を尋ねん。
詞「そも〳〵是は雄略天皇に仕へ奉る臣下なり。我此度伊勢大神宮に参り。内外の宮めぐり殊には内外清浄の信心私なく候。又是より二見の浦石の鏡をも一見せばやと存じ候。
道行「五十鈴川。清き流れの深緑。〳〵。陰も百枝の松風の。をさまる木々の色までも。神の恵みの御陰ぞと。所からなる心地して。詠め妙なる気色かな。〳〵。
詞「急ぎ候ふ程に。二見の浦に着きて候。是なる小田を見れば。幣帛を立て剰へ渇仰の気色見えて候。里人に尋ねばやと存じ候。
シテ、ツレ一声「露ながら。水かげ草の種取りて。手玉もゆらぐ袂かな。
ツレ「おり立つ田子の数添ふや。
二人「御裳濯川の水ならん。
シテサシ「有難や神の世継は久方の。天の村早稲種取りて。
二人「今人の世に至るまで。四つの時日は曇りなくて。千代万代の末かけて。流す田面の早苗取る。田子の裳裾の色はえて。袂ゆたかに楽しむなり。
歌「種を蒔き。種を納めし神代より。草も木も。我大君の国なれば。〳〵。何くも同じ神と君。隔てなき世に住まふ身の。誰か恵みの外ならん。実にや八島の外までも。波静にて吹く風の。枝を鳴らさぬ天地の。神の威徳は有難や。〳〵。
ワキ詞「如何に是なる老人に尋ぬべき事の候。
シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。
ワキ「是なる小田を見れば。田水は豊かなるに猶川水をまかせ入れ。渇仰の気色見えたり不審にこそ候へ。
シテ「さん候是は神の御田にて候。又此川は御裳濯川とて。田水は豊かなれども神水をまかせ入れ。五十の水口に幣帛を立て。神徳長久の恵みを仰ぐ政にて候。
ワキ「さて此御裳濯川はいつの代よりの名にて候ふぞ。
シテ「さん候人皇十一代垂仁天皇の皇女。御名は倭姫の皇子。忝くも御神鏡をいたゞき国々を廻り給ひしに。当国にてはあの二見の浦より。此川路に就いて上り給ひしに。御裳の裾よごれたりしを。此川にて濯ぎ給ひしによつて。御裳濯川とは申すなり。
ツレ「其時田作の翁のありしが。神の御鎮座になるべき所やあると御尋ねありしに。
シテ「彼翁申すやう。さん候此川上に三十八万歳の間此山を守護し奉る者の候。御道しるべ申さんとて。下つ岩根を敷きて参らすると云へり。されば其時の田作の翁は。今の興玉の神是なり。
ツレ「其時尋ね入り給ひしによつて。山をば神路山といひ。
シテ「川をば神路川と名づけ。
ツレ「流れ久しく澄める世の。
二人「天長地久嘉辰令月の。御影濁らぬ御裳濯川の。神徳深き水田なれば。神にまかせて作るなり。
ワキ「謂を聞けば有難や。さて〳〵今の名にしおふ。其御裳裾を濯ぎ給ひし。在所は取り分き何くの程ぞ。
シテ「されば先にも申しゝ如く。御裳濯川と名づけし事。取り分き此瀬の辺なれば。神が瀬とこゝを申すなり。
ワキ「あら面白や神が瀬とは。神かぜとこそ聞き馴れしに。
シテ「されば常には神風や。伊勢と申すも神の誓ひ。
ツレ「又此川には神が瀬とて。神の渡瀬のある故に。神路川とも申すなり。
シテ「然れば歌人の。
二人「言の葉にも。
地「山の辺の。御井をみがへり神が瀬の。〳〵。伊勢の乙女等あひ見つるかなとよみしも。此倭姫の古へを。よみ奉る心なり。千早振る。神路の山の村雨は。種を蒔くなる神の代の。久しき湿ひに。天の小稲の天が下。広き恵みに逢ふ事も。唯神徳にあらずや。有難の神の誓ひやな。あら有難の誓ひや。
ワキ詞「猶々神慮残さず御物語り候へ。
地クリ「忝なの御事や。我等迷ひの凡夫として。神徳王事の恵みを受くる。仰ぎても猶あまりあり。
シテサシ「それ人は天下の神物なり。かるが故に正直を以て本とす。
地「日月は四州を照らすといへども。分きては唯正直の頭に宿り給ふ。
シテ「然れば二所宗廟の。御心を知らんと思はゞ。
地「正直を以て本とすべし。
クセ「然るに大御神。地神の為めに皇孫を。蘆原の中つ国に。降し奉らんとて。三種の神宝を。自ら授け給ひしに。其三種にも取り分きて。八咫の鏡は殊になほ。御影を写しつゝ。御身を放ち給はず。其鏡の如くに。万境を写しながら。しかも一物を貯へず。神牀を清めて。正直を授け給へり。されば生きとし生けるもの。日月の恩徳に。預らざるはなき物を。是れ以て当宮の。御神徳にてあらざるや。
シテ「然れば神代の昔より。
地「今人の世に至るまで。神徳は明らかに。垂仁天皇の御宇かとよ。下つ岩根に宮居して。皇大神となり給ふ。是れ正に本覚の。和光に交じる塵の世を。守らん為めの御誓。仏も同じ御心の。自性真如の月読の。神とも示現し給へり。
ロンギ地「実に有難き神道の。〳〵。曇らぬ御代を受けて知る。人の心ぞ有難き。
二人「一河の流れ汲みて知る。今日しもこゝに都人。君と神とは隔なき。御物語り申すなり。
地「そも老人は誰なれば。わきて委しく白木綿の。
二人「斯かる御代ぞと仰ぎ見る。
地「天つ空音の。
二人「時鳥。
地「一声鳴くも折からに。神の告ぞと木綿四手の。田長と見えつるが。我興玉の神よとて。御裳濯川の渡瀬なる。神が瀬を打ち渡りて。跡も波に入りにけり。跡白波に入りにけり。(中入)
ワキ歌「実に今とても神の代の。〳〵。誓ひは尽きぬしるしとて。神と君との御恵み。誠なりけり有難や。〳〵。
後ジテ「君が代は尽きじとぞ思ふ神風や。御裳濯川の澄まん限は。守るべし〳〵。百王守護の神明として。和光普き皇の数。すめら世までも守りの神。興玉の神とは我事なり。
地「や玉垣の。内外の宮居声満ちて。
シテ「月読の宮居照りまさる。
地「潔き影や鏡の宮所。
シテ「空澄む雲も朝熊や。
地「汐干の石と顕はれしも。済度方便の影な忘れそ。〳〵。千早振るなりゆだちの袖。(神舞)
シテ「神風や。伊勢の浜荻折り敷きて。
地「旅寐やすらんあらき浜辺に。〳〵。
シテ「清き渚の玉の数々。
地「光りも天照らす。
シテ「天の岩戸の昔をうつす。
地「榊葉の神歌。
シテ「千早の袖や御裳濯川の。
地「波の白和幣。
シテ「水の青和幣。
地「取り〴〵さま〴〵の神遊び。鏡の宮居朝妻の汐時に。沖より見えて白波の。沖より見えて白波の。又立ち帰り二見の。浜松の千代の影ある。神と君こそ久しけれ。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第八輯』大和田建樹 著

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