和布刈
前 ワキ 早鞆神職 シテ 漁翁 ツレ 海士乙女 後 ツレ 前に同じ ツレ(天女) 神女 シテ 龍神 地は 豊前 季は 十二月 ワキ次第「今日早鞆の神祭。〳〵。尽せぬ御代ぞめでたき。 詞「そもそも是は長門の国早鞆の明神に仕へ申す神職の者なり。さても当社に於て御祭さま〴〵御座候ふ中にも。十二月晦日の御神事をば。和布刈の御神事と申し候。今夜寅の時に至つて。龍神潮を守護し。波四方に退いて平々たり。其時神主海中に入つて。水底の和布を刈り神前に供へ申し候。殊に当年は不思議の奇瑞御座候ふ間。いよ〳〵信心を致し。御神事を執り行はゞやと存じ候。 サシ「有難や今日早鞆の神の祭。年の極めの御祭と云つぱ。又新玉の年の始めを。祝ふ心は君が為め。 歌「春の野に出でゝ摘む若菜。〳〵。生ひ行く末の程もなく。年は暮るれど緑なる。和布刈の今日の神祭。心を致しさま〴〵に。君の恵みを祈るなり。〳〵。 シテ、ツレ一声「天地の開けし御代は久堅の。神と君との御かげかな。 ツレ「今日にめぐるも早鞆の。 二人「共に暮れ行く年なれや。 シテサシ「有難やそれ秋津洲の内に於て。神所の御祭さま〴〵なれども。 二人「此早鞆の神祭り。世界わたづみ隔てなくて。薀藻の礼奠感応の。海松和布浮和布の花も咲く。波をかざしの手向草。塵に交はる神心。誓ひに漏るゝ方もなし。 下歌「歩みを運ぶ此神に。いざ結縁をなさうよ。 上歌「所は早鞆の。〳〵。ゆきゝの舟も楫を絶え。数々の捧物。海士のしわざに至るまで。かひ有るべしや志。それこそ花の手向なれ。〳〵。 ワキ「不思議やな夕影すぐる神の御前に。手向を捧ぐる人影は。そもや如何なる人やらん。 ツレ「是は賤しき海士乙女の。数には有らぬ憂き身なるが。手向を捧ぐるばかりなり。 シテ詞「我は又年経て住める此浦の。漁翁の罪を恐るゝ故。賤しき者は軽き身を。浮べん為めにて候ふなり。 ワキ「中々なれや鱗までも。誓ひに漏れぬ此浦の。 シテ「海士の漁火焦がるとも。 二人「和光の影は曇りなく。 下歌地「明らかなれや天地の。開けし神代の如くにて。すなほなるべき人心。いやましの瑞験。顕はれにけるぞ有難き。 上歌「海原や。博多の海も程近く。〳〵。汐引島も見え渡る。早鞆の友千鳥。沖の鷗も群れ立つや。春秋の。雲井の雁もとゞめ得ぬ。誰が玉章の門司の関守と。よみし心も理や。〳〵。 地クリ「それ地神第四の御代。火々出見尊。豊玉姫と契りをなし。海陸の隔てなかりしに。 シテサシ「其御産の時豊玉姫。尊に向ひ宣はく。 地「産後に於て我姿を。あへて見給ふ事なかれと。御約諾の詔。互にかたく誓ひ給ふ。 クセ「然れども時至り。さすがに御気色。いぶかしく思しけるかとよ。かいまみえさせ給ひしを。いとあさましと恨みかこち。長く海路の通ひを。立ち隠す波の玉の御子を。捨てつゝ豊玉姫は。龍宮に入り給ふ。其後潮さしひきの。朝暮の時はありながら。人畜類の生をそむき。境をさかりにき。 シテ「然れば神代の昔より。 地「此早鞆の神祭り。神慮普き誓ひなれや。上は非想の雲の上。下は下界の龍神まで。渇仰の心中。まことに深き蒼海を。陸地になして此国の。長門の通ひ隔てもなき。海蔵の御宝も。意の如くなるべし。 ロンギ地「げにや心の如くにて。〳〵。此結縁もさま〴〵の。人の願ひの無かるべき。 ツレ「今は何をか包むべき。我住む方は久方の。 地「天つ乙女の雲の袖。 シテ「かざしの花の手向草。 地「色こそかはれ。 シテ「わたづみの。 地「花は波路の底よりも。龍宮の捧げもの。天地ともに渇仰の。天つ乙女は雲に乗れば。翁は老の波に。隠れ入り給ひけりや。隠れ入らせ給ひけり。(中入) 地「汀に神幸なり給へば。〳〵。虚空に音楽松風に和して。皎月照らし異香薫ずる。龍女は波をもかざしの袖を。かへすも立ち舞ふ袂かな。(天女の舞) 天女「さる程に〳〵。 地「和布刈の時至り。虎嘯くや風早鞆の。龍吟ずれば雲起り雨となり。潮も光り鳴動して。沖より龍神あらはれたり。 地「龍神すなはち現はれて。〳〵。 シテ「和布刈の所の水底を穿ち。 地「払ふや汐瀬に。こゆるぎの磯菜摘む。 シテ「めざし濡らすな沖に居れ波。 地「沖に居れ波と夕汐を退け。屛風を立てたる如くに分れて。海底の砂は平々たり。 ワキ「神主松明振り立てゝ。 地「神主松明振り立てゝ。御鎌を持つて岩間を伝ひ。つたひ下つて半町ばかりの。海底の和布を刈り帰り給へば。程なく跡に汐さし満ちて。もとの如く荒海となつて。波白妙のわたづみ和田の原。天を浸し。雲の波煙の波風。海上にをさまれば。波風海上にをさまれば蛇体は。龍宮に飛んでぞ入りにける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第七輯』大和田建樹 著