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紅葉狩

観世小次郎作 世阿弥作とも


シテ 貴女
ツレ 侍女
ワキ 平維茂
トモ 従者


ワキ 前に同じ
シテ 鬼神

地は 信濃
季は 九月

シテ、ツレ次第「時雨を急ぐ紅葉狩。〳〵。ふかき山路を尋ねん。
シテ「是は此あたりに住む女にて候。
一同「げにやながらへて浮世に住むとも今は早。誰白雲の八重葎。茂れる宿の淋しきに。人こそ見えね秋の来て。庭の白菊うつろふ色も。うき身のたぐひとあはれなり。
シテ「あまり淋しき夕まぐれ。しぐるゝ空をながめつゝ。四方の梢もなつかしさに。
下歌一同「伴ひ出づる道のべの。草葉の色も日にそひて。
上歌「下もみぢ。夜のまの露や染めつらん。〳〵。朝の原は昨日より。色ふかき紅を。分け行くかたの山深み。げにや谷河に。風の掛けたる柵は。流れもやらぬもみぢ葉を。渡らば錦中絶えんと。まづ木の本に立ちよりて。四方の梢をながめて。暫く休み給へや。
ワキサシ「面白や頃は長月廿日あまり。四方の梢もいろ〳〵に。錦を色どる夕時雨。ぬれてや鹿のひとり鳴く。声をしるべの狩場のすゑ。げに面白き景色かな。
トモ一声「明けぬとて。野辺より山に入る鹿の。跡吹き送る風の音に。駒の足並勇むなり。
歌「大丈夫が。弥猛心の梓弓。〳〵。入る野の薄露分けて。行くへも遠き山陰の。しがきの道のさかしきに。落ちくる鹿の声すなり。風のゆくへも心せよ。〳〵。
ワキ詞「如何に誰かある。
トモ詞「御前に候。
ワキ「あの山陰にあたつて人影の見え候ふは。如何なる者ぞ名を尋ねて来り候へ。
トモ「畏つて候。名を尋ねて候へば。やごとなき上﨟の。幕うちまはし屛風を立て。酒宴なかばと見えて候ふ程に。懇にたづねて候へば。名をば申さず。只さる御方とばかり申し候。
ワキ「あら不思議や。此あたりにてさやうの人は思ひもよらず候。よし誰にてもあれ上﨟の。道のほとりの紅葉狩。ことさら酒宴の半ならば。かた〴〵乗打叶ふまじと。
地「馬よりおりて沓をぬぎ。〳〵。道をへだてゝ山陰の。岩の崖路を過ぎ給ふ。心づかひぞたぐひなき。〳〵。
シテ「げにや数ならぬ身ほどの山の奥に来て。人は知らじと打ち解けて。ひとりながむるもみぢ葉の。色見えけるか如何にせん。
ワキ「我は誰とも白真弓。たゞやごとなき御事に。恐れて忍ぶばかりなり。
シテ「忍ぶもぢずり誰ぞとも。知らせ給はぬ道のべの。たよりに立ち寄り給へかし。
ワキ「思ひよらずの御事や。何しに我をば留め給ふべきと。さらぬやうにて過ぎ行けば。
シテ「あら情なの御事や。一村雨の雨宿り。
ワキ「一樹の陰に。
シテ「立ちよりて。
地「一河の流れを汲む酒を。いかでか見捨て給ふべきと。恥かしながらも。袂にすがりとゞむれば。さすが岩木にあらざれば。心よわくも立ち帰る。所は山路の菊の酒。何かは苦しかるべき。
地クリ「げにや虎渓を出でし古も。心ざしをば捨てがたき。人の情の盃の。深き契のためしとかや。
シテサシ「林間に酒をあたゝめて紅葉を焼くとかや。
地「げに面白や所から。巌の上の苔莚。片敷く袖も紅葉衣の。くれなゐ深き顔ばせの。
ワキ「此世の人とも思はれず。
地「胸うち騒ぐばかりなり。
クセ「さなきだに人心。乱るゝふしは竹の葉の。露ばかりだに受けじとは。思ひしかども盃に。向へばかはる心かな。されば仏も戒めの。道はさま〴〵多けれど。ことに飲酒を破りなば。邪婬妄語も諸共に。乱心の花かづら。斯かる姿はまた世にも。たぐひ嵐の山桜。よその見る目も如何ならん。
シテ「よしや思へば是とても。
地「前世のちぎり浅からぬ。深き情の色見えて。かゝる折しも道のべの。草葉の露のかごとをも。かけてぞ頼む行末を。契るもはかな打ちつけに。人の心も白雲の。立ちわづらへるけしきかな。かくて時刻も移りゆく。雲に嵐の声すなり。散るか正木の葛城の。神のちぎりの夜かけて。月の盃さす袖も。雪をめぐらす袂かな。堪へず紅葉。(中の舞)
シテ「堪へず紅葉青苔の地。
地「堪へず紅葉青苔の地。又これ涼風暮れゆく空に。雨うちそゝぐ夜嵐の。もの凄ましき山陰に。月待つほどのうたゝ寐に。かたしく袖も露深し。夢ばし覚まし給ふなよ。〳〵。(中入)
ワキ「あらあさましや我ながら。無明の酒の酔心。まどろむ隙もなき内に。新なりける夢の告と。
地「驚く枕に雷火みだれ。天地もひゞき風遠近の。たづきも知らぬ山中に。覚束なしや恐ろしや。
歌「不思議や今までありつる女。〳〵。とり〴〵化生の姿をあらはし。あるひは巌に火焰を放ち。または虚空に焰を降らし。咸陽宮の煙の内に。七尺の屛風の上になほ。あまりて其たけ一丈の鬼神の。角はかぼく眼は日月。面を向くべきやうぞなき。
ワキ「維茂すこしも騒がずして。
地「維茂すこしも騒ぎ給はず。南無や八幡大菩薩と。心に念じ。剣を抜いて待ちかけ給へば。微塵になさんと飛んでかゝるを。飛び違ひむずと組み。鬼神の真中さしとほす所を。頭をつかんで上らんとするを。切り払ひ給へば。剣に恐れて巌へ上るを。引きおろし刺し通し。忽ち鬼神を従へ給ふ。威勢の程こそ恐ろしけれ。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第九輯』大和田建樹 著

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