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山姥

世阿弥作


ワキ 女の従者
ツレ 都の遊女
シテ 山に住む女


ワキ 前に同じ
シテ 鬼女

地は 越中
季は 雑

ワキ次第「善き光りぞと影たのむ。〳〵。仏の御寺尋ねん。
詞「是は都方に住居仕る者にて候。又是に渡り候ふ御事は。百魔山姥とてかくれなき遊女にて御座候。かやうに御名を申すいはれは。山姥の山廻りするといふ事を。曲舞に作つて御謡ひあるにより。京童部の申しならはして候。又此頃は善光寺へ御参りありたき由承り候ふ程に。某御供申し。唯今信濃の国善光寺へと急ぎ候。
サシ「都を出でゝさゝ波や。志賀の浦船漕がれ行く。末は有乳の山越えて。袖に露散る玉江の橋。かけて末ある越路の旅。思ひやるこそ遥なれ。
歌「梢波立つ汐越の。〳〵。安宅の松の夕煙。消えぬ憂き身の罪を切る。弥陀の剣の砥並山。雲路うながす三越路の。国の末なる里問へば。いとゞ都は遠ざかる。境川にも着きにけり。〳〵。
ワキ詞「御急ぎ候ふほどに。是はゝや越後越中の境川に御着きにて候。暫く是に御座候ひて。猶々道の様体をも御尋ねあらうずるにて候。
ツレ詞「げにや常に承る。西方の浄土は十万億土とかや。是は又弥陀来迎の直路なれば。あげろの山とやらんに参り候ふべし。とても修行の旅なれば。乗物をば是にとゞめ置き。徒歩はだしにて参り候ふべし。道しるべして給び候へ。
ワキ「あら不思議や。暮るまじき日にて候ふが俄に暮れて候ふよ。さて何と仕り候ふべき。
シテ「なふ〳〵旅人御宿参らせうなふ。是はあげろの山とて人里遠き所なり。日の暮れて候へば。わらはが庵にて一夜を明させ給ひ候へ。
ワキ「あらうれしや候。俄に日の暮れ前後を忘じて候。やがて参らうずるにて候。
シテ「今宵の御宿参らする事。とりわき思ふ子細あり。山姥の歌の一節うたひて聞かさせ給へ。年月の望なり鄙の思出と思ふべし。其為めにこそ日を暮らし。御宿をも参らせて候へ。いかさまにも謡はせ給ひ候へ。
ワキ「是は思ひもよらぬ事を承り候ふ物かな。さて誰と見申されて。山姥の歌の一節とは御所望候ふぞ。
シテ「いや何をか包み給ふらん。あれにまします御事は。百魔山姥とてかくれなき遊女にてはましまさずや。まづ此歌の次第とやらんに。よし足引の山姥が。山めぐりすると作られたり。あら面白や候。
詞「是は曲舞に依りての異名。さて誠の山姥をば。如何なる物とか知ろしめされて候ふぞ。
ワキ「山姥とは山に住む鬼女とこそ曲舞にも見えて候へ。
シテ「鬼女とは女の鬼とや。よし鬼なりとも人なりとも。山に住む女ならば。妾が身の上にてはさぶらはずや。年頃色には出ださせ給ふ。言の葉草の露ほども。御心には掛け給はぬ。恨み申しに来りたり。道を極め名を立てゝ。世情万徳の妙花を開く事。此一曲の故ならずや。然らば妾が身をも弔ひ。舞歌音楽の妙音の。声仏事をもなし給はゞ。などか妾も輪廻をのがれ。帰性の善所に至らざらんと。
カヽル「恨みを夕山の。鳥獣も鳴きそへて。声をあげろの山姥が。霊鬼是まで来りたり。
ツレ「不思議の事を聞く物かな。さては誠の山姥の。是まで来り給へるか。
シテ「我国々の山廻り。今日しもこゝに来る事は。我名の徳を聞かん為なり。謡ひ給ひてさりとては。我妄執を晴らし給へ。
ツレ「此上はとかく辞しなば恐ろしや。もし身の為めやあしかりなんと。はゞかりながら時の調子を。取るや拍子をすゝむれば。
シテ「しばさせ給へとてもさらば。暮るゝを待ちて月の夜声に。謡ひ給はゞ我も又。誠の姿をあらはすべし。すはやかげろふ夕月の。
歌「さなきだに。暮るゝを急ぐ深山辺の。
地「暮るゝを急ぐ深山辺の。雲に心をかけ添へて。此山姥が一節を。夜すがら謡ひ給はゞ。其時わが姿をも。あらはし衣の袖つぎて。移舞をまふべしと。いふかと見れば其まゝ。かき消すやうに失せにけり。〳〵。(中入)
ツレ「あまりの事のふしぎさに。さらに誠と思ほえぬ。鬼女が詞を違へじと。
歌「松風ともに吹く笛の。〳〵。声すみわたる谷川に。手まづさへぎる曲水の。月に声すむ深山かな。〳〵。
後ジテ「あら物すごの深谷やな。寒林に骨を打つ霊鬼。泣く〳〵前生の業を恨む。深野に花を供ずる天人。かへす〴〵も幾生の善をよろこぶ。いや善悪不二。何をか恨み何をか喜ばんや。万箇目前の境界。懸河渺々として。巌峨々たり。山又山。いづれの工か青巌の形を削りなせる。水また水。誰が家にか碧潭の色を染め出だせる。
ツレ「恐ろしや月も木深き山陰より。其さま化したる顔ばせは。其山姥にてましますか。
シテ「とてもはや穂に出でそめし言の葉の。気色にも知ろしめさるべし。我にな恐れ給ひそとよ。
ツレ「此上は恐ろしながらうば玉の。闇まぎれよりあらはれ出づる。姿詞は人なれども。
シテ「髪にはおどろの雪を戴き。
ツレ「眼の光は星の如し。
シテ「さて面の色は。
ツレ「さにぬりの。
シテ「軒の瓦の鬼の形を。
ツレ「今宵始めて見る事を。
シテ「何にたとへん。
ツレ「古への。
地「鬼一口の雨の夜に。〳〵。雷なりさわぎ恐ろしき。其夜を思ひ白玉か。何ぞと問ひし人までも。我身の上に為りぬべき。浮世がたりも恥かしや。〳〵。
シテ詞「春の夜の一時を千金に換へじとは。花に清香月に陰。是は願ひのたまさかに。行き逢ふ人の一曲の。其ほどもあたら夜に。はや〳〵謡ひ給ふべし。
ツレ「げに此上はともかくも。いふに及ばぬ山中に。
シテ「一声の山鳥羽をたゝく。
ツレ「鼓は滝波。
シテ「袖は白妙。
ツレ「雪をめぐらす木の花の。
シテ「何はのことか。
ツレ「法ならぬ。
地「よし足引の山姥が。〳〵。山廻りするぞ苦しき。
シテクリ「夫れ山と謂つぱ。塵泥より起つて。天雲かゝる千丈の峰。
地「海は苔の露よりしたゞりて。波濤を畳む万水たり。
シテ「一洞空しき谷の声。梢に響く山彦の。
地「無声音を聞くたよりとなり。声にひゞかぬ谷もがなと。望みしもげにかくやらん。
シテ「ことに我住む山家の景色。山高うして海近く。谷深うして水遠し。
地「前には海水瀼々として。月真如の光りをかゝげ。後には嶺松巍々として。風常楽の夢を破る。
シテ「刑鞭蒲朽ちて蛍むなしく去る。
地「諫鼓苔深うして。鳥驚かずともいひつべし。
クセ「遠近の。たづきも知らぬ山中に。おぼつかなくも呼子鳥の。声すごき折々に。伐木丁々として。山さらに幽なり。法性峰そびえては。上求菩提をあらはし。無明谷深きよそほひは。下化衆生を表して。金輪際に及べり。そも〳〵山姥は。生所も知らず宿もなし。たゞ雲水を便りにて。至らぬ山の奥もなし。
シテ「然れば人間にあらずとて。
地「隔つる雲の身をかへ。仮に自性を変化して。一念化生の鬼女となつて。目前に来れども。邪正一如と見る時は。色即是空其まゝに。仏法あれば世法あり。煩悩あれば菩提あり。仏あれば衆生あり。衆生あれば山姥もあり。柳は緑花は紅の色々。さて人間に遊ぶ事。ある時は山賤の。樵路に通ふ花の陰。やすむ重荷に肩を貸し。月もろともに山を出で。里まで送るをりもあり。又ある時は織姫の。五百機立つる窓に入つて。枝の鶯糸くり。紡績の宿に身を置き。人を助くるわざをのみ。賤の目に見えぬ。鬼とや人のいふらん。
シテ「世を空蟬の唐衣。
地「払はぬ袖に置く霜は。夜寒の月に埋もれ。打ちすさぶ人の絶間にも。千声万声の。砧に声のしでうつは。たゞ山姥がわざなれや。都に帰りて。世語にせさせ給へと。思ふは猶も妄執か。唯うち捨てよ何事も。よし足引の山姥が。山廻りするぞ苦しき。
シテ「あしびきの。
地「山めぐり。
シテ「一樹の陰一河の流れ。皆これ他生の縁ぞかし。ましてや我名を夕月の。浮世をめぐる一節も。狂言綺語の道すぐに。讃仏乗の因ぞかし。あら御名残惜しや。いとま申して帰る山の。
地「春は梢に咲くかと待ちし。
シテ「花を尋ねて山めぐり。
地「秋はさやけき影を尋ねて。
シテ「月見る方にと山めぐり。
地「冬はさえ行く時雨の雲の。
シテ「雪をさそひて山めぐり。
地「めぐり〳〵て。輪廻を離れぬ妄執の雲の。塵つもつて山姥となれる。鬼女が有様みるや〳〵と。峰にかけり谷に響きて。今までこゝにあるよと見えしが。山また山に山めぐりして。行方も知らずなりにけり。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第五輯』大和田建樹 著

底本では禅竹作と記されていますが、一般的な説に則り世阿弥作としました。

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