夕顔
世阿弥作 前 ワキ 豊後の僧 シテ 里女 後 ワキ 前に同じ シテ 夕顔の上 地は 京都 季は 秋 ワキ詞「是は豊後の国より出でたる僧にて候。さても松浦箱崎の誓ひも勝れたるとは申せども。なほも名高き男山に参らんと思ひ。此程都に上りて候。今日も又立ち出で仏閣に参らばやと思ひ候。 サシ「尋ね見る都に近き名所は。まづ名も高く聞えける。雲の林の夕日影。うつろふ方は秋草の。花紫の野を分けて。 歌「賀茂の御社伏し拝み。〳〵。糺の森も打ち過ぎて。帰る宿りは在原の。月やあらぬとかこちける。五条あたりのあばら屋の。主も知らぬ所まで。尋ね訪ひてぞ暮らしける。〳〵。 詞「急ぎ候ふ程に。是は早五条あたりにて有りげに候。不思議やなあの屋づまより。女の歌を吟ずる声の聞え候。暫く相待ち尋ねばやと思ひ候。 シテ「山の端の心も知らで行く月は。うはの空にて影や絶えなん。巫山の雲は忽に。陽台のもとに消えやすく。湘江の雨はしば〳〵も。楚畔の竹を染むるとかや。 サシ「こゝは又もとより所も名を得たる。ふるき軒端の忍草。しのぶかた〴〵多き宿を。紫式部が筆の跡に。たゞ何某の院とばかり。書き置きし世は隔たれど。見しも聞きしも執心の。色をも香をも捨てざりし。 下歌「涙の雨は後の世の。さはりとなれば今も猶。 上歌「つれなくも。通ふ心の浮雲を。〳〵。はらふ嵐の風の間に。真如の月も晴れよとぞ。空しき空に仰ぐなる。〳〵。 ワキ詞「如何に是なる女性に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「さてこゝをば何くと申し候ふぞ。 シテ「是こそ何某の院にて候へ。 ワキ「不思議やな何某の山何某の寺は。名の上の唯かりそめの言の葉やらん。又それを其名に定めしやらん承りたくこそ候へ。 シテ「さればこそ初めより。むつかしげなる旅人と見えたれ。紫式部が筆の跡に。唯何某の院とかきて。其名をさだかにあらはさず。然れどもこゝは旧りにし融の大臣。住み給ひにし所なるを。其世をへだてゝ光君。また夕顔の露の世に。上なき思ひを見給ひし。名も恐ろしき鬼の形。それもさながら苔むせる。河原の院と御覧ぜよ。 ワキ「うれしやさては昔より。名におふ所を見る事よ。我等も豊後の国の者。其玉葛のゆかりとも。なして今又夕顔の。露きえ給ひし世語を。かたり給へや御跡を。及びなき身も弔はん。 シテクリ「そも〳〵光る源氏の物語。言葉幽艶をもとゝして。理浅きに似たりといへども。 地「心菩提心をすゝめて義ことに深し。誰かは仮にも語り伝へん。 シテサシ「中にも此夕顔の巻は。殊にすぐれてあはれなる。 地「情の道も浅からず。契り給ひし六条の。御息所に通ひ給ふ。よすがによりし中宿に。 シテ「唯やすらひの玉鉾の。 地「便りに立てし御車なり。 クセ「ものゝあやめも見ぬあたりの。小家がちなる軒のつまに。咲きかゝりたる花の名も。えならず見えし夕顔の。をり過さじとあだ人の。心の色は白露の。情おきける言の葉の。末をあはれと尋ね見し。閨の扇の色異に。たがひに秋の契りとは。なさゞりし東雲の。道の迷ひの言の葉も。此世はかくばかり。はかなかりける蜉蝣の。命懸けたる程もなく。秋の日やすく暮れはてゝ。宵の間過ぐる故郷の。松のひゞきも恐ろしく。 シテ「風にまたゝく灯火の。 地「消ゆると思ふ心地して。あたりを見ればうば玉の。闇の現の人もなく。如何にせんとか思河。うたかた人は息消えて。帰らぬ水の泡とのみ。散りはてし夕顔の。花は再び咲かめやと。夢に来りて申すとて。有りつる女も。かき消すやうに失せにけり。〳〵。(中入) ワキ歌「いざさらば夜もすがら。〳〵。月見がてらに明かしつゝ。法華読誦の声たえず。弔ふ法ぞ誠なる。〳〵。 後ジテサシ「さなきだに女は五障の罪ふかきに。聞くも気疎きもののけの。人うしなひし有様を。あらはす今の夢人の。跡よく弔ひ給へとよ。 ロンギ「不思議やさては宵の間の。山の端出でし月影の。ほの見えそめし夕顔の。末葉の露の消えやすき。本のしづくの世語を。かけて顕はし給へるか。 シテ「見給へこゝもおのづから。気疎き秋の野らとなりて。 ワキ「池は水草に埋もれて。古りたる松の陰暗く。 シテ「又鳴き騒ぐ鳥の枯声。身にしみわたるをりからを。 ワキ「さも物すごく思ひ給ひし。 シテ「心の水は濁江に。ひかれてかゝる身となれども。優婆塞が行ふ道をしるべにて。 地「来ん世も深き契り絶えすな。契り絶えすな。(序の舞) シテ「御僧の今の弔ひを受けて。 地「御僧の今の弔ひを受けて。かず〳〵うれしやと。 シテ「夕顔のゑみの眉。 地「開くる法華の。 シテ「花房も。 地「変成男子の願ひのまゝに。解脱の衣の袖ながら。今宵は何を包まんと。言ふかと思へば音羽山。嶺の松風かよひ来て。明けわたる横雲の。迷ひもなしや東雲の。道より法に出づるぞと。明けぐれの空かけて。雲のまぎれに失せにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第七輯』大和田建樹 著