冊子型のPDFファイルをダウンロードしていただけます。
プリントアウトの上、中央を山折りにし、端を綴じてご活用ください。

 

 

 

 

義興

シテ 新田義興
ワキ 旅僧

所 武蔵矢口

次第、ワキ「憂世の夢の覚やらぬ。〳〵。身の行末ぞはかなき。
ワキ詞「是は諸国一見の僧にて候。我此程は武蔵の国に候ひて。事旧たる寺社拝みめぐりて候。又是より鎌倉一見と心ざし候。
道行「紫の所縁ある野を分暮し。〳〵。墨の衣手露けきに。あはれ数そふ旅枕。夢もむすばぬ草莚。おもひをのぶる方もなく。名にのみ聞し矢口なる。渡りにはやく着にけり。〳〵。
詞「あら嬉しや渡りを越て候。是によし有気なる宮居拝まれさせ給ふ。人を待て謂を尋ばやと思ひ候。
サシ「昨日と過。けふと暮しつ明日はまた。斯こそあらめ何迄も。神の恵みをあふぐなり。いざ〳〵歩みを運びつゝ。神に仕への御注連縄。榊葉に祓とり添て奉る。払ひ給へ清めて給ふ。
歌「頼む誓ひは数々の。神に祈りをかけまくも。
歌「かたじけなしや是とても。〳〵。只浅からぬ心もて。何うたがひの有べきや。実神徳はよも尽じ。絶せぬぞ手向成べしや。猶々祓を捧む。〳〵。
ワキ「いかに是成人に尋申べき事の候。
シテ「此方の事にて候か。何事にて候ぞ。
ワキ「只今白木綿祓を捧られ候御神は。如何成神にて御座候ぞ。
シテ「さん候。此社は新田左兵衛義興を神と崇め申候。往昔官領足利基氏と畠山道誓心を合せ。竹沢を頼み。義興の方へ降人に出し。種々の計略をめぐらし。此渡りにて義興は討れ給ふ。されば其霊様々の奇瑞をなし給ふにより。此所に社を建。新田大明神と崇め申候。加様に申せば我ながら。余所にはあらぬ泡の。草の蔭のゝ露と消しを。懺悔のために来りたり。現とな思ひ給ひそとよ。
同「実や思へば何事も。〳〵。みな夢の有様を。語るもよしな義興が。なき跡とひてたび給へ。疑はせ給ふなと。いふ声も幽かに。立隠れつゝ失にけり。
ワキ「扨は義興の幽魂仮に顕れ。我に詞をかはしけるぞや。猶も姿を見るやとて。
歌「夕部の空の草枕。〳〵。露を片敷夜と共に。此御経を読誦する。〳〵。
後シテ「落花枝に帰らずといふに。猶執心の魂魄の。妄執の心は晴やらず。我と此身を苦しむる。嗔恚の程社はかなけれ。
ワキ「不思議やな。はや深更に成哉覧と。夜の灯幽かなる。光の内に人影の。甲冑を帯し見え給ふは。義興にてぞましますらん。
シテ「はやくも御覧じ給ふ物哉。御約束をたがへじと。重て姿を顕はし衣の。猶妄執の雲霧を晴してたばせ給へとよ。
ワキ「愚かやな。心からこそ迷ひの雲霧。払ばなどか真如の月の。
シテ「曇りはあらじ。夜半の空の。
同「影清き。教へもしるき法の道。〳〵。迷はぬは心ならましと。受る身ながらまた爰に。生死の海を越やらで。執心のふかき世語りを。懺悔にいざや申さん〳〵。
クリ、地「実や龍門原上にかばねをさらすといへども。武将誉れの名をば埋まず。
サシ「思ひぞ出る閻浮の有様。
同「月日もゆけど妄執の。心の闇の晴やらぬを。慙愧懺悔にあらはして。心の水のにごりをすまさん。
クセ「偖も道誓は。竹沢に申付。義興を謀べしと有しかば。我に好みを因みつゝ。様々成し謀事。運の尽ぬるはかなさは。打解たりし其気色。よも二心有まじと。おもふもわりなかりしに。
シテ「竹沢と江戸兄弟。
同「心の儘にたばかり。忍びやかに鎌倉へ。我を伴なふ。運の尽ぬるはかなさは。矢口の渡りの舟場に。術をかまへ河中にて。頓て舟をぞ沈めける。左右の川の辺りには。矢尻を揃へ扣へつゝ。相図を定め責しかば。遁れん方はなかりけり。
シテ「荒忘れがたの執心やな。
シテ詞カケリ「あら絶がたき修羅の苦患や。中にも井の弾正土肥南瀬市川は。手と手を取て水底をくゞり。向ひの岸に打上て。
同「敵陣に破て入。〳〵。日本一の不道人に。たばかられぬる口惜さよ。七生までも恨みをなさんと大にいかり。少時が程こそ戦しが。
シテ「運つき弓の力も弱り。
同「運つき弓の力も弱り。よはり行て。手の下に討れし。其亡念の胸の焰に身を焦すを。さと人あはれみ我霊を。一社と崇め折節に祭るといへども。妄執の雲霧の五衰三熱深かりつるを。今御僧に逢奉り。懺悔に晴る胸の煙。胸の煙は消々と。かげろふ姿はうせにけり。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著『宴曲十七帖 謡曲末百番』国書刊行会 編

このコンテンツは国立国会図書館デジタルコレクションにおいて「インターネット公開(保護期間満了)」の記載のある書物により作成されています。
商用・非商用問わず、どなたでも自由にご利用いただけます。
当方へのご連絡も必要ありません。
コンテンツの取り扱いについては、国立国会図書館デジタルコレクションにおいて「インターネット公開(保護期間満了)」の記載のある書物の利用規約に準じます。
詳しくは、国立国会図書館のホームページをご覧ください。
国立国会図書館ウェブサイトからのコンテンツの転載