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吉野天人

日吉佐阿弥作


ワキ 都人
シテ 里女


ワキ 前に同じ
シテ 天人

地は 大和
季は 春

ワキ次第「花の雲路をしるべにて。〳〵。吉野の奥を尋ねん。
詞「是は都方に住居する者にて候。さても我春になり候へば。こゝかしこの花を一見仕り候。中にも千本の桜を年々に詠め候。此千本の桜は。三吉野の種取りし花と承り及び候ふ間。若き人々をも伴なひ。此度は和州に下向仕り候。
道行「此春は。殊に桜の花心。〳〵。色香に染むや深緑。糸よりかけて青柳の。露も乱るゝ春雨の。夜ふりけるか花色の。朝じめりして気色立つ。吉野の山に着きにけり。〳〵。
詞「急ぎ候ふ程に。是は早吉野の山に着きて候。御覧候へ峰も尾上も花にて候。猶々奥深く分け入らばやと思ひ候。
シテ詞「なふ〳〵あれなる人々は何事を仰せ候ふぞ。
ワキ詞「さん候是は都の者にて候ふが。此三吉野の花を承り及び。始めて此山に分け入りて候。又見申せばやごとなき御姿なるが。此山中に入らせ給ふは。如何なる人にてましますぞ。
シテ「是は此あたりに住む者なるが。春立つ山に日を送り。さながら花を友として。山野に暮らすばかりなり。
ワキ「実に〳〵花の友人は。他生の縁と言ひながら。我等も同じ其心。
シテ「所も山路の。
ワキ「友なれや。
地「見もせぬ人や花の友。〳〵。知るも知らぬも花の陰に。相宿りして諸人の。いつしか馴れて花衣の。袖触れて木の本に。立ちよりいざや詠めん。実にや花の下に。帰らん事を忘るゝは。美景によりて花心。馴れ〳〵初めて詠めん。いざ〳〵馴れて詠めん。
ワキ詞「如何に申すべき事の候。かやうに家路を忘れ花を詠め給ふ事。いよ〳〵不審にこそ候へ。
シテ詞「実に御不審は御理。今は何をか包むべき。誠は我は天人なるが。花に引かれて来りたり。今宵はこゝに旅居して。信心を致し給ふならば。其いにしへの五節の舞。小忌の衣の羽袖を返し。月の夜遊を見せ申さん。暫くこゝに待ち給へと。
地「夕ばえ匂ふ花の陰。〳〵。月の夜遊を待ち給へ。乙女の姿顕はして。必ずこゝに来らんと。迦陵頻伽の声ばかり。雲に残りて失せにけり。〳〵。(中入)
ワキ「不思議や虚空に音楽聞え。異香薫じて花降れり。
地「是れ治まれる御代とかや。いひもあへねば雲の上。〳〵。琵琶琴和琴笙篳篥。鉦鼓羯鼓や糸竹の。声澄み渡る春風の。天つ乙女の羽袖を返し。花に戯れ舞ふとかや。(中の舞)
地「乙女は幾度君が代を。〳〵。撫でし巌も尽きせぬや。春の花の梢に舞ひ遊び。飛び上り飛び下る。実にも上なき君の恵み。治まる国の天つ風。雲の通路吹きとづるや。乙女の姿とゞまる春の。霞も棚引く三吉野の。吉野の山桜。うつろふと見えしが。又咲く花の雲に乗り。又咲く花の雲に乗りて。行くへも知らずぞなりにける。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著

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