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豊公謡曲 吉野詣

シテ 蔵王権現
ツレ 天女
子方 豊太閤
ワキ 太閤臣下
ワキツレ 同

所 吉野山
時 春

ワキ次第「影あきらけき日の本や。〳〵。国民豊なりけり。
詞「抑是は当今に仕へ奉る臣下なり。さても大閤大相国。本朝を心のまゝに治め三韓を平げ。剰へ唐よりも懇款を入るゝにより。武勇功を終へ還御ならせ給ひ。山城の国伏見の里に大宮作りし給へり。又此春は吉野の花見として御参詣の御事なれば。只今供奉仕り候。
道行「頃は早花の都の春の空。〳〵。風ものどけき淀川や。舟さし下す曙の。月を江口の跡に見て。大江の岸や住吉の。松の木の間の淡路島。堺の津をも打ち過ぎて。信田の森の梢より。猶白雲の立田山。越えて程なく名にし負ふ。吉野の山に着きにけり。〳〵。
詞「急ぎ候ふ程に吉野山に着きて候。処々の旧跡をも尋ねばやと存じ候。
二人一声「春は又。花の都となりにけり。桜に匂ふ吉野山。
ツレ「嵐も白き白雲の。梢を包む高嶺かな。
シテサシ「雲漠々花漫々。たいしゆ花に喩へば花に語あり。
二人「君が為め開け始めし天地の。久しき世々の花の色。浅からざりける匂ひかな。
下歌「時つ風枝をならさぬ春の日に。
上歌「鶯の声ほころぶる朝もよひ。〳〵。木々の梢の色々に。霞み渡れる川づらの。波にも山路近ければ。花のうつらぬ水もなし。〳〵。
ワキ詞「如何に老人に尋ぬべき事あり。
シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。
ワキ詞「是は都の人にて御座候ふが。当山の花初めて御覧ぜられ候。此あたりの名所旧跡。又千もとの桜のいはれなど聞し召るべく候ふ間。近づきて言上致し候へ。
シテ詞「さん候都の雲の上人ならば。清見原の天皇の昔などは知し召されぬ事あらじ。又千本の桜の事。古人の歌にも。むかし誰かゝる桜の種を植ゑて。吉野の花の山となしけんと詠じ給ふなれは。今は誰かは白雲の。色香をいかで答ふべき。
ワキカヽル「あら面白の答やな。されども神代の昔より。伝へいひおく謂はなきか。
ツレカヽル「もとよりこゝは天皇を。隠すといへる宮所。
シテ「同じ勝手の神社。
ツレ「深き恵は吉野川。
シテ「岩切り通し行く水の。
二人「すめる心は神の代を。移す鏡と御覧じて。猶疑はせ給ふなよ。
ワキ「げに理りを木綿四手の。かゝる奇特を今聞くも。
シテ「さも疎からぬ。
ワキ「人心や。
地「花の都の稀人の。〳〵。衣の色も唐錦。折から花のかざしにて。かざり車の下簾。猶たゞならぬ景色かな。〳〵。
クリ地「抑此山と申すは。徳漢土に通ひて道五台山に続ける。
シテサシ「権現こゝにまし〳〵て。猶もろこしに顕はせり。
シテ「然れば和歌の言葉にも。もろこしの吉野山といはれしは。事の喩へにいひながら。又故なきにあらず。
クセ「彼五台山はもとよりも。山のあはひにて。氷雪常にみち〳〵て。夏も寒力甚し。されば人倫道絶えて。おのづからなる世の中に。隠家とこそ聞えけれ。
シテ「大和路や吉野の山の奥は猶。
地「岩のかけ道末細く。人の往来のあらざれば。松横たはり橋朽ちて。一鳥鳴かず山更に。幽かなる処から。天降ります神心。賢き御代を仰がんの。誓の末の山高み。今を盛の花の陰。都の人の御車。寄せくる道のすなほなる。御心ぞ有難き。御心の程ぞ有難き。
ロンギ地「彼老翁の姿をば。〳〵。山のかせきと見し物を。心の花を顕はして。よしある今の物語。其名如何なる人やらん。
シテ「今は何をかつゝみ井の。此瑞垣の内に住む。神とはいはじ千早振。宮つこと御覧ぜよ。
地「そもや山路の奥ながく。隠れて跡を垂れ給ふ。神体こゝに現じつゝ。言葉をかはす不思議さよ。
シテ「げにや天下の政。ためし少なき御代なれば。神も守りを添ふべしと。
地「いひしもあらず山陰に。翁さびたる狩衣。日も夕暮の花曇の。雲にまぎれて登りけり。高嶺の雲に登りけり。
ワキ歌「不思議や花の木の間より。〳〵。咲く花ながら中空に。花降り異香薫じつゝ。音楽聞え吹く風に。仮寐の夢を覚ますなり。〳〵。
天女「あら面白や面白や。誰かいつし霜葉は。二月の花よりも紅なりとは。車をとゞめてそゞろに愛せば。色こそ花の木陰なれ。
地「天つ乙女の天降り。〳〵。五節の舞の羽袖を返せば。花の色香は満ち満ちたり。(舞)
地「糸竹呂律の声々に。〳〵。妙なる舞楽の内に又。不思議や花の木陰より。金色の光かゝやき渡るは。蔵王権現の来現かや。
後ジテ「人老いて花をかんざしにして人恥ぢず。花は恥づべし老人の。頭にのぼる事を。花盛九重の雲の上。大位の光駕に月卿雲客悉く。袂を連ねて花やかなり。
地「此折節を窺ひ給ひ。〳〵。蔵王権現も形を顕し。運ぶ歩もみつきなれや。本より吉野は千本の桜。中に色よき一枝を。君に捧ぐる。まのあたりなる奇特かな。
シテ「珍しの遊楽や。〳〵。価はあらじ春の夜の。花に清香月は霞める。曙の空かけて。乙女は雲路によぢのぼれば。蔵王権現は吉野の宮にとゞまり給ひ。都に還御の道を守り。都に還御の道を守りの。神徳こそはめでたけれ。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著『謡曲評釈 第九輯』大和田建樹 著

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