呂后
観世弥次郎作 ワキ 文帝の臣 シテ 文帝 ツレ(女) 呂后 ツレ(男) 韓信 同 彭越 地は 唐土 季は 雑 ワキ詞「抑是は漢の文帝に仕へ奉る臣下なり。さても此君と申すは。漢の高祖の第二の御子にて御座候ふが。兄孝恵の帝崩御の後御位に即かせ給ひて候。又こゝに父高祖第一の后。御名を呂后と申し候ふが。此間以ての外御病気にて御座候。さる間医師数を尽し。医療様々にて御座候へども。更に其験もなく候。けふも皆々参内申し。御容体をも伺ひ申さばやと存じ候。 サシ「それ明君の威徳には。四海安全に民栄え。思ふ事なき御代ながら。げにや浮世の習とて。かく類なき翠髪美麗の。花の形も今は早。うつろふ色の増鏡。 下歌「曇りがちにて打ち向ふ。影をも未だ厭ひつゝ。 上歌「いさゝめの。仮なる世ぞと思へども。〳〵。更に驚く夢の間を。猶待遠に春風の。まだき梢を何とたゞ。夕べ〳〵と誘ひ来て。花にはつらき風ならん。〳〵。 ワキ詞「是は不思議なる事どもにて候ふ程に。此由を主上へ奏し奉らばやと存じ候。 シテ「如何に誰かある。 ワキ「御前に候。 シテ「唯今肉塊といふ化生の者来り。后に障碍をなすとは誠にて有るか。 ワキ物語「さん候俄に天地鳴動して。一つの肉塊躍り廻る。目も口もなし。切りたゝけば切りたる処口と成りて。呂后を罵つて曰く。我は是韓信彭越が亡魂なり。さても奢れる秦の始皇を討ち平らげ。感陽宮に疾く責め入り。漢の天下となす事も。皆是韓信彭越が忠節なり。しかのみならず。項羽五十万騎の軍兵を引き具し。西の方楚国より。鴻溝西まで打つて上らせ給ひ。既に高祖もあぶなかりしを。韓信彭越が一命を軽んじ軍して。烏江の河の辺にて項羽が頸を刎ね落し。高祖に捧げ申しゝ時。此両人の忠臣を。一丈に壇を築き三度礼し給ひしを。呂后は知し召されずや。かく大忠の者共を。呂后の讒言深きにより。雲夢沢にて鷹狩と号し。たばかりおめ〳〵と召し捕られ。都へ引きのぼせられ恥を漢家にさらし。長楽宮にて切られし事。ひとへに呂后の口ゆゑなりと。大音声にて呼ばゝりぬ。なんぼう恐ろしき御事にて御座候。 シテ「是は不思議なる事どもにて候ふ物かな。如何に呂后。たとひ魔縁の障碍ありとも。王位に若く事よもあらじ。唯御心を強く持ち。猶良薬を用ひ給へ。 女カヽル「げに恐ろしや目の前に。さま〴〵見えし化生の姿。今は命の限ぞと。思ひ乱るゝ露の身の。置き処なき心かな。 シテ「さらでだに弱きに弱き青柳の。 女「いと苦しさも身一つの。 シテ「思ひの色は。 女「それぞとも。 地「いはん方なき身の行末。〳〵。あまりになれば何とわが。心の奥は知られなん。よしや為しつる我とがの。因果のめぐる小車の。やるかたなや身の苦しみ。見るに涙も留まらず。 クセ「げにや人目のみ。しげき深山の青つゞら。苦しき世をも。思ひわびぬる。身はいつまでの。果しはかなみかくばかり。浮名に残らんは。げにつゝましき心かな。 シテ「春くれば柳の糸も解けにけり。 地「結ぼゝれたる我心をば。思ひ知るらん夕暮の。月も移ろふ宮の内。心もすめる折からや。いとゞあはれの。猶身にしめる気色なり。 シテ「かくて宮中物さびて。心をすめる折ふしに。不思議や晴天かきくもり。雷は忽ち震動して。大雨しきりに降り来り。身の毛もよだつ折ふしに。 上地「大いなる雲南殿の。庭上にこそ顕れたれ。 地「不思議や雲の内よりも。〳〵。あたりを払ふ大魚の上に。大船あらはれ船中を見るに。おの〳〵怨霊あらはれたり。 セキ「我は知らずや。戚夫人とて。帝の寵愛浅からず。花と争ふ装ひを。 地「三毒の風に落花となす。それのみならず趙王まで。殺し給へば其仇を。報ぜんために来りたり。 ツレ二人「是は高祖の兵に。韓信彭越とて。大忠の者。呂后の讒言に身を失ひし。恨み申しに顕れたり。 地「とり〴〵恨みを申し上げ。〳〵。忽ち呂后の命を取らんと。各呼ばゝるその声は。天地も響くばかりなり。 シテ「文帝是を見るよりも。 地「文帝是を見るよりも。天地の間に何者か。王位を侵さんと夕塩の。御剣を抜き持ち。呂后を囲み待ちかけ給へば。おの〳〵雲よりおり立ちて。呂后を取らんと進む中にも。恨みは数々。胸にも戚夫人。せきあへぬ此身の思ひかな。 二人「韓信彭越打物を振り上げ。 地「韓信彭越打物を振り上げ。玉体にかゝれば。主上は剣を取り直し給ひ。かの怨霊と戦ひ給へば。よき隙なりと戚夫人。呂后の御手を取つて。行かんとするを。文帝走り寄り押し分け給ひ。剣を振り上げ刺し通し〳〵。投げ捨て給ひ。残れる霊鬼を追つゝめ切り立て。透間をあらせず戦ひ給へば。王位に恐れ。虚空をさして上りけるが。今より後は来るまじと。呼ばゝる声も雲中に聞え。〳〵。五更の一点も明けにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第二輯』大和田建樹 著