和国
ワキ 丹後の僧 ヲカシ 里人 シテ 和国 地は 京都 季は 秋 ワキ次第「身を捨てゝ住む山にても。〳〵。憂き時いづち行かまし。 詞「是は丹後の国より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候ふ程に。此秋思ひ立ち都に登り候。 道行「大江山。幾野の道の遠けれど。〳〵。乗らでや過ぎし里の名の。馬路河原路打ち過ぎて。跡より恋のおひの坂。桂の川の渡し舟。法の道をや尋ぬらん。〳〵。 詞「急ぎ候ふ程に。是は早都に着きて候。我宿願の子細候ふ間。先づ北野の経蔵に参らばやと思ひ候。所の人の渡り候ふか。 ヲカシ「シカ〳〵。 ワキ「是は此処始めて一見の者にて候。何事にても珍しき事候はゞ。見せて給はり候へ。 ヲカシ「シカ〳〵。 ワキ「其和国とやらん参りて候はゞ見せ候へ。 シテ「桜木を。時雨や黄葉に染めつらん。右近の馬場の秋の色。 ワキ「是は承り及びたる和国にてましますか。 シテ「見申せば旅の御僧と見えつるが。我名を和国と宣ふ事。返す〴〵も不審なり。よし〳〵それは兎も角も。何の故にて有るやらん。 ワキ「さてさて御身の住み給ひし。在所はいづく何故に。和国と名を付け給ふぞや。 シテ「是は一条桃園のあたりに住む者なるが。我歌の道に心を寄せ。其道を極めし故にや。少し慢ずる心ありて。かやうに現なくなりたるにより。京わらんべの言ひ習はしたる異名にて候。 ワキ「げに〳〵是は理なり。されども天満御神の。誓はまさに曇らねば。直なる心と成り給ふべし。我等は田舎の者なれば。歌道の事は知らねども。都の土産に語り給へ。 シテ「いでいで語つて聞かせ申さん。 シテクリ「抑大和歌と申すは六義あり。 地「是れ六道の巷に詠じ。千早振る神代の歌は。文字の数も定めなし。 サシ「其後天照大神の御弟。素盞嗚の尊よりして。三十一文字に定まる事。八雲たつ出雲八重垣の御神詠より。此国のことわざとして。 シテ「人間のみか鳥類も。 地「高間の寺に来りつゝ。鳴く鶯の声聞けば。歌の姿は備はれり。 クセ「さればにや畜類も。歌を詠ずるためしあり。浜の真砂を歩み行く。蛙の道の跡見れば。住吉の。海士のみるめにあらねども。仮にも人に。又訪はれぬると。水に住む蛙まで。和国の風俗。神の御代より始まれり。 シテ「さればにや大国に。 地「詩を作る諸人は。三界を詠むるに。花鳥風月。松風の私語。鼓は波の音。笛は龍の吟を以て。舞楽をも作れり。唯人は。乱舞歌道に交はりて。心を延ぶるこそ。万年の齢ひなるべし。 ワキ「如何に申し候。此人は面白う狂ふと仰せ候ふが。さもなくして歌道の事を諷ひかなで。狂気の様はなく候。 ヲカシ「さん候此人は忍妻の候ひしが。其許へ通へと申し候へば。諷ひ狂ひ候。 ワキ「さあらば急いで御狂はせ候へ。 ヲカシ「心得申し候。如何に和国。かの御方より急いで御通ひあれと申し来り候。 シテ「何彼方より通へとや。通へば人や知る。又通はねば中絶ゆる。琴の糸切らさじと。夜々物を思はする。 ヲカシ「何とて左様に仰せ候ふぞ。一夜なりとも御通ひ候へ。 シテ「一夜二夜は馴れそめて。三夜にもなれば住吉の。松は根毎にあらはるゝ。〳〵。 地「顕はれて。〳〵。出づるは君と我と君と。枕の上に。かゝる涙の雨の夜も。雪の暁別れの鐘の音。彼是いづれも思ひ見れば。歌の種とや成りぬらん。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第二輯』大和田建樹 著