能「鉄輪」の詞章とともに、「平家物語 剣巻(つるぎのまき)」からこの曲の元となった部分を掲載しています。
併せて内容の把握にお役立てください。

剣巻は平家物語の冒頭に置かれた巻で、源氏に伝わる名刀「鬚切」「膝丸」の逸話が述べられます。
能「鉄輪」はこの剣巻から、橋姫のエピソードを話の種として作られました。
同じく剣巻を題材とする曲に「土蜘蛛」「羅生門」があります。

 

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鉄輪

世阿弥作


ヲカシ 貴船社人
シテ 都の女


男 夫
ワキ 安倍晴明
シテ 女の生霊

地は 京都
季は 雑

ヲカシ「かやうに候ふ者は。貴船の宮に仕へ申す者にて候。さても今夜不思議なる霊夢を蒙りて候。其謂は。都より女の丑の時参りをせられ候ふに。申せと仰せらるゝ子細あらたに御霊夢を蒙りて候ふ程に。今夜参られ候はゞ。御夢想の様を申さばやと存じ候。
シテ次第「日も数そひて恋衣。〳〵。貴船の宮に参らん。
サシ「実にや蜘蛛の家に荒れたる駒は繋ぐとも。二道かくるあだ人を。頼まじとこそ思ひしに。人の偽り末知らで。契りそめにし悔しさも。唯我からの心なり。余り思ふも苦しさに。貴船の宮に詣でつゝ。住むかひもなき同じ世の。内に報いを見せ給へと。
下歌「頼みを懸けて貴船川。早く歩みを運ばん。
上歌「通ひなれたる道の末。〳〵。夜も糺のかはらぬは。思ひに沈むみぞろ池。生けるかひなき憂き身の。消えん程とや草深き。市原野辺の露分けて。月遅き夜の鞍馬川。橋を過ぐれば程もなく。貴船の宮に着きにけり。〳〵。
詞「急ぎ候ふ程に。貴船の宮に着きて候。心静に参詣申さうずるにて候。
ヲカシ「如何に申すべき事の候。御身は都より丑の時参り召さるゝ御方にて渡り候ふか。今夜御身の上を御夢想に蒙りて候。御申し有る事ははや叶ひて候。鬼になりたきとの御願にて候ふ程に。我屋へ御帰りあつて。身には赤き衣を着。顔には丹を塗り頭には鉄輪を戴き。三つの足に火を灯し。怒る心を持つならば。忽ち鬼神と御なりあらうずるとの御告にて候。急ぎ御帰りあつて告の如く召され候へ。なんぼう奇特なる御告にて御座候ふぞ。
シテ詞「是は思ひもよらぬ仰にて候。わらはが事にては有るまじく候。定めて人違にて候ふべし。
ヲカシ「いや〳〵しかとあらたなる御夢想にて候ふ程に。御身の上にて候ふぞ。かやうに申す内に何とやらん恐ろしく見え給ひて候。急ぎ御帰り候へ。
シテ「是は不思議の御告かな。先々我屋に帰りつゝ。夢想の如く為るべしと。
地「いふより早く色変はり。〳〵。気色変じて今までは。美女の形と見えつる。緑の髪は空ざまに。立つや黒雲の。雨降り風と鳴神も。思ふ中をば避けられし。恨みの鬼と為つて。人に思ひ知らせん。憂き人に思ひ知らせん。(中入)
男詞「かやうに候ふ者は。下京辺に住居する者にて候。我此間うち続き夢見悪しく候ふ程に。晴明の許へ立ち越え。夢の様をも占はせ申さばやと存じ候。如何に案内申し候。
ワキ詞「誰にて渡り候ふぞ。
男「さん候下京辺の者にて候ふが。此程うち続き夢見悪しく候ふ程に。尋ね申さん為めに参りて候。
ワキ「あら不思議や。考へ申すに及ばず。是は女の恨みを深く蒙りたる人にて候。殊に今夜の内に。御命も危く見え給ひて候。若し左様の事にて候ふか。
男「さん候何をか隠し申すべき。我本妻を離別し。新しき妻を語らひて候ふが。若し左様の事にてもや候ふらん。
ワキ「実に左様に見えて候。彼者仏神に祈る数積つて。御命も今夜に究つて候ふ程に。某が調法には叶ひがたく候。
男「是まで参り御目に懸り候ふ事こそ幸にて候へ。平に然るべき様に御祈念有つて賜はり候へ。
ワキ「此上は何ともして御命を転じかへて参らせうずるにて候。急いで供物を御調へ候へ。
ワキ「いで〳〵転じかへんとて。茅の人形を人尺に作り。夫婦の名字を内に籠め。三重の高棚五色の幣。おの〳〵供物を調へて。肝胆を砕き祈りけり。謹上再拝。夫れ天開け地固まつしよりこのかた。伊奘諾伊奘冊尊。天の磐座にして。みとのまくばひ有りしより。男女夫婦のかたらひをなし。陰陽の道ながく伝はる。それに何ぞ魍魎鬼神妨げをなし。非業の命を取らんとや。
地「大小の神祇。諸仏菩薩。明王部天童部。九曜七星二十八宿を驚かし奉り。祈れば不思議や雨降り風落ち。神鳴り稲妻頻りに満ち満ち。御幣もざゞめき鳴動して。身の毛よだちて恐ろしや。
後ジテ「夫れ花は斜脚の暖風に開けて。同じく暮春の風に散り。月は東山より出でゝ早く西嶺に隠れぬ。世上の無常かくの如し。因果は車輪の廻るが如く。我に憂かりし人々に。忽ち報いを見すべきなり。恋の身の浮ぶ事なき鴨川に。
地「沈みしは水の青き鬼。
シテ「我は貴船の河瀬の蛍火。
地「頭に戴く鉄輪の足の。
シテ「焰の赤き鬼と為つて。
地「臥したる男の枕に寄り添ひ。如何に殿御よ珍らしや。
シテ「恨めしや御身と契りし其時は。玉椿の八千代二葉の松の末かけて。変はらじとこそ思ひしに。などしも捨ては果て給ふらん。あら恨めしや。捨てられて。
地「捨てられて。思ふ思ひの涙に沈み。人を恨み。
シテ「夫をかこち。
地「ある時は恋しく。
シテ「又は恨めしく。
地「起きても寐ても忘れぬ思ひの。因果は今ぞと白雪の。消えなん命は今宵ぞ。痛はしや。
地「悪しかれと。思はぬ山の峰にだに。〳〵。人の歎きは生ふなるに。いはんや年月。思ひに沈む恨みの数。積つて執心の。鬼となるも理や。
シテ「いで〳〵命を取らん。
地「いで〳〵命を取らんと。しもとを振り上げうはなりの。髪を手にからまいて。打つや宇津の山の。夢現とも分かざる憂き世に。因果は廻り合ひたり。今更さこそ悔しかるらめ。さて懲りや思ひ知れ。
シテ「殊更恨めしき。
地「殊更恨めしき。あだし男を取つて行かんと。臥したる枕に立ち寄り見れば。恐ろしや幣帛に。三十番神まし〳〵て。魍魎鬼神は穢らはしや。出でよ〳〵と責め給ふぞや。腹立や思ふ夫をば。取らであまさへ神々の。責めを蒙る悪鬼の神通。通力自在の勢絶えて。力もたよ〳〵と足弱車の。廻り逢ふべき時節を待つべしや。先此度は帰るべしと。いふ声ばかりはさだかに聞えて。いふ声ばかり聞えて姿は。目に見えぬ鬼とぞなりにける。目に見えぬ鬼となりにけり。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第二輯』大和田建樹 著

 

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平家物語 剣巻

斯て嫡子摂津守頼光の代となりて、不思議様々多かりけり。中にも一の不思議には、天下に人多く失する事あり。死ても失せず、座敷に連りて集り居たる中に、立つとも見えず、出づるとも見えずして、搔消す様にぞ失せにける。行末も知らず、在所も聞えずありければ、怖しといふばかりなし。上一人より下万民に至るまで、騒ぎ恐る事申すに及ばず。是を委しく尋ぬれば、嵯峨天皇の御宇に、或公卿の娘、余に嫉妬深うして、貴船の社に詣でて、七日籠りて申す様、帰命頂礼貴船大明神、願くは七日籠りたる験には、我を生きながら鬼神に成てたび給へ、妬しと思ひつる女、取殺さんとぞ祈りける。明神哀とや覚しけん、誠に申す所不便なり、実に鬼になりたくば、姿を改めて、宇治の河瀬に行きて、三七日漬れと示現あり。女房悦びて都に帰り、人なき処にたて籠りて、長なる髪をば五つに分け、五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて、三つの足には松を燃し、続松を拵へて、両方に火をつけて、口にくはへつゝ、夜更け人定りて後、大和大路へ走り出で、南を指して行きければ、頭より五つの火燃上り、眉太く、鉄漿にて、面赤く、身も赤ければ、さながら鬼形に異ならず。是を見る人、肝魂を失ひ倒れ伏し、死せずといふ事なかりけり。斯の如くして、宇治の河瀬に行きて、三七日漬りければ、貴船社の計にて、生きながら鬼となりぬ。宇治の橋姫とは是なるべし。さて妬しと思ふ女、其ゆかり、我をすさむ男の親類、境界、上下をも選ばず、男女をも嫌はず、思ふ様にぞ取り失ふ。男を取らんとては女に変じ、女を取らんとては男に変じて人をとる。京中の貴賤、申の時より下になりぬれば、人をも入れず、出づる事もなし。門を閉ぢてぞ侍りける。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『平家物語』永井一孝 校

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