剣巻は平家物語の冒頭に置かれた巻で、源氏に伝わる名刀「鬚切」「膝丸」の逸話が述べられます。 能「羅生門」はこの剣巻から、渡辺綱が鬼の腕を切り落とし、鬚切を「鬼丸」と改名したエピソードを話の種として作られました。 剣巻では、綱が羅生門ではなく一条戻橋で鬼と出会ったことになっています。
同じく剣巻を題材とする曲に「鉄輪」「土蜘蛛」があります。
羅生門 一名 綱
観世小次郎作 前 ワキヅレ 源頼光 ワキ 渡辺綱 ワキヅレ 藤原保昌 ワキヅレ 其他一同 後 ワキ 前に同じ シテ(謡なし) 鬼神 地は 山城 季は 春 一同次第「治まる花の都とて。〳〵。風も音せぬ春べかな。 頼光詞「是は源の頼光とは我事なり。さても丹州大江山の鬼神を従へしより以来。貞光季武綱公時。此人々と日夜朝暮参会申し候。殊更このほどは。晴間も見えぬ春雨にて候ふ程に。酒を勧めばやと存じ候。 サシ「有難や四海の安危は掌のうちに照らし。百王の理乱は心のうちに懸けたり。 地「曇りなき。君の御影は久方の。〳〵。空ものどけき春雨の。音も静に都路の。七つの道も末すぐに。八洲の浪もおとせぬ。九重の春ぞ久しき。〳〵。 頼光詞「いかに面々。さしたる興も候はねども。此春雨の昨日今日。晴間も見えぬつれ〴〵に。今日も暮れぬと告げ渡る。声も淋しき入相の鐘。 地「つく〴〵と。春のながめの淋しきは。〳〵。忍ぶにつたふ。軒の玉水おとすごく。独ながむる夕まぐれ。伴なひ語らふ諸人に。御酒をすゝめて盃を。とり〴〵なれや梓弓。弥猛心の一つなる。つはものゝ交はり。頼みある中の酒宴かな。 クセ「思ふ心のそこひなく。唯うちとけてつれ〴〵と。降り暮らしたる宵の雨。これぞ雨夜の物語。 頼光「しな〴〵言葉の花も咲き。匂ひも深き紅に。面もめでゝ人心。隔てぬ中の戯ぶれは。面白や諸共に。近く居よりて語らん。 頼光詞「あまりに淋しき夜にて候ふ程に。皆々近う寄つて御物語り候へ。 ワキ詞「畏つて候。仰せにて候ふ程に。皆々近う御参り候へ。 頼光「いかに申し候。此程めづらしき事はなく候ふか。 保昌「さん候此頃不思議なる事を申し候。九条の羅生門に鬼神の住んで。暮るれば人の通らぬ由を申し候。 ワキ「いかに保昌筋なき事なのたまひそ。さすがに羅生門は。都の南門ならずや。土も木も我大君の国なれば。いづくか鬼の宿と定めんと聞く時は。たとひ鬼神の住めばとて住ますべきにもあらず。かゝる麤忽なる事を仰せ候ふぞ。 保昌「さては某詐を申すと思しめし候ふか。此事世上に隠れなければ申すなり。まこと不審に思しめさば。今夜にてもあれ彼門に御出であつて。誠か偽か御覧候へ。 ワキ「さては某参るまじき者と思しめされ候ふか。其義にて候はゞ。今夜かの門に行き。誠か偽かを見候ふべし。しるしを賜はり候へ。 ツレ「満座のともがら一同に。是は無益とさゝへたり。 ワキ「いや保昌に対し野心はなけれども。一つは君の御為めなれば。しるしを給べと申しけり。 頼光詞「げに〳〵綱が申すごとく。一つは君の御為めなれば。しるしを立てゝ帰るべしと。札を取り出で給びければ。 ワキ歌「綱はしるしを賜はりて。 地「綱はしるしを賜はりて。御前を立つて出でけるが。立ち帰り方々は。人の心を陸奥の。安達が原にあらねども。こもれる鬼を従へずは。二度又人に。面を向くる事あらじ。是までなりや梓弓。引きはかへさじ武士の。やたけごゝろぞ恐ろしき。〳〵。(中入) 後ワキ一声「さても渡辺の綱は。唯かりそめの口論により。鬼神の姿を見ん為めに。物の具取つて肩に掛け。同じ毛の兜の緒をしめ。重代の太刀を佩き。 地「たけなる馬に打ち乗つて。舎人をもつれず唯一騎。宿所を出でゝ二条大宮を。南がしらに歩ませけり。 地「春雨の。音も頻りに更くる夜の。〳〵。鐘も聞ゆる暁に。東寺の前を打ち過ぎて。九条おもてに打つて出で。羅生門を見わたせば。物冷ましく雨落ちて。俄に吹きくる風の音に。駒も進まず高いなゝきし。身ぶるひしてこそ立つたりけれ。 地「其時馬を乗り放し。〳〵。羅生門の石壇にあがり。しるしの札を取り出だし。壇上に立ておき帰らんとするに。後より兜の。錏をつかんで引き留めければ。すはや鬼神と太刀抜き待つて。切らんとするに。取りたる兜の緒を引きちぎつて。おぼえず壇より飛びおりたり。かくて鬼神は怒りをなして。〳〵。持ちたる兜をかつぱと投げ捨て。其長衡門の軒にひとしく。両眼月日の如くにて。綱をにらんで立つたりけり。 ワキ「綱はさわがず太刀さしかざし。 地「綱はさわがず太刀さしかざし。汝知らずや王地を侵す。其天罰はのがるまじとて。かゝりければ。鉄杖を振りあげえいやと打つを。飛び違ひちやうと切る。切られて組みつくを。払ふ剣に腕打ち落とされ。ひるむと見えしがわきつぢにのぼり。虚空をさして上りけるを。慕ひゆけども黒雲おほひ。時節を待ちて又取るべしと。呼ばゝる声もかすかに聞ゆる。鬼神よりも恐ろしかりし。綱は名をこそ揚げにけれ。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第四輯』大和田建樹 著
平家物語 剣巻
其比摂津守頼光の内に、綱、公時、貞道、末武とて、四天王を仕はれけり。中にも綱は、四天王の随一なり。武蔵国の美田といふ所にて生れたりければ、美田源次とぞ申しける。一条大宮なる所に頼光聊用事ありければ、綱を使者に遣さる。夜隠に及びければ、鬚切を帯かせ、馬に乗せてぞ遣しける。彼処に行きて尋ね、問答して帰けるに、一条堀川の戻橋を渡りける時、東のつめに、齢二十余と見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、紅梅の袿に守懸け、佩帯の袖に経持ちて、人も具せず、唯独南へ向ひてぞ行きける。綱は橋の西のつめを過ぎけるを、はた〳〵と叩きつゝ、やゝ何地へおはする人ぞ、我等は五条わたりに侍り、頻に夜深けておそろし、送りて給ひなんやと、馴馴しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下り、御馬に召され候へといひければ、悦しくこそといふ間に、綱は近く歩み寄て、女房をかき抱きて、馬に打乗せて、堀川の東のつめを南の方へ行きけるに、正親町へ、今一二段が程、打も出でぬ所にて、此女房後へ見むきて申しけるは、誠には五条わたりには、さしたる用も候はず、我住所は都の外にて候ふなり、それまで送りて給ひなんやと申しければ、承候ひぬ、何処までも御座所へ、送り進らせ候ふべしといふを聞きて、頓て厳しかりし姿を替へて、怖しげなる鬼に成りて、いざ我行く処は、愛宕山ぞといふまゝに、綱が髻を摑みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。綱は少しもさわがず、件の鬚切をさつと抜き、空ざまに鬼が手をふつと切る。綱は北野の社の、廻廊の屋の上にどうと落つ。鬼は手を切られながら、愛宕へぞ飛行く。さて綱は廻廊より跳り下りて、髻に附きたる鬼が手を取りて見れば、雪の貌に引替へて、黒き事限なし。白毛隙なく生繁り、銀の針を立てたる如くなり。是を持ちて参りたりければ、頼光大に驚き給ひ、不思議の事なりと思ひ給ひ、晴明を召せとて、播磨守安倍晴明を召して、如何あるべきと問ひければ、綱は七日の暇を給りて慎むべし、鬼が手をば能々封じ置き給ふべし、祈禱には仁王経を講読せらるべしと申ければ、其儘にぞ行はれける。既に六日と申しけるたそがれ時に、綱が宿所の門を叩く、何処よりと尋ぬれば、綱が養母渡辺に在りけるが、上りたりとぞ答へける。かの養母と申すは、綱がためには伯母なり。人していふは、悪しき様に心得給ふ事もやとて、門の際まで立ち出でて、適々の御上にて候へども、七日の物忌にて候ふが、今日は六日になりぬ。明日ばかりは、如何なる事候ふとも叶ふまじ。宿を召され候ふべし。明後日になりなば、入れ参らせ候ふべしと申しければ、母は是を聞きて、さめ〴〵と打泣きて、力及ばぬ事どもなり。さりながら和殿を母が生み落しゝより請取りて、養ひそだてし志、如何ばかりと思ふらん。夜とて安く寝もせず、濡れたる所に我は臥し、乾ける所に和殿を置き、四つや五つになるまでは、荒き風にも当てじとして、いつか我子の成長して、人に勝れてよからんことを、見ばや聞かばやと思ひつゝ、夜昼願ひし甲斐ありて、摂津守殿御内には、美田源次といひつれば、肩を双ぶる者もなし。上にも下にも誉られぬれば、悦とのみこそ思ひつれ。都鄙遼遠の路なれば、常に上ることもなし。見ばや見えばやと、恋しと思ふこそ親子の中の歎なれ。此程打ち続き夢見も悪しく侍れば、覚束なく思はれて、渡辺より上りたれども、門の内へも入れられず、親とも思はれぬ我身の、子と恋しきこそはかなけれ。綱は道理に責られて、門を開きて入れにけり。母は悦びて、来し方行く末の物語し、さて七日の斎といひつるは、何事にて在りけるぞと問ひければ、隠すべき事ならねば、有のまゝにぞ語りける。母これを聞き、さては重き慎にてありけるぞや。さほどの事とも知らず、恨みけるこそ悔しけれ。さりながら親は守にてあるなれば、別の事はよもあらじ。鬼の手といふなるは、如何なる物にてあるやらん、見ばやとこそ申されけれ。綱答へて曰く、易き事にて候へども、固く封じて侍れば、七日過ぎでは叶ふまじ。明日暮れて候はば、見参に入れ候ふべし。母の曰く、よし〳〵さては見ずとても、事の闕べき事ならず。我は又此暁は、夜を籠めて下るべしと、恨顔に見えければ、封じたりつる鬼の手を取り出し、養母の前にぞ置きたりける。母打返々々之を見て、あなおそろしや、鬼の手といふものは、かゝる物にてありけるやといひて、さし置く様にて、立ざまに、是は吾手なれば、取るぞよといふまゝに、恐しげなる鬼になりて、空に上りて破風の下を蹴破りて、虚に光りて失せにけり。其よりして渡辺党の屋造には、破風を立てず、東屋作にするとかや。綱は鬼に手を取返されて、七日の斎破るといふとも、仁王経の力に依りて、別の仔細なかりけり。此鬚切をば、鬼の手切りて後鬼丸と改名す。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『平家物語』永井一孝 校