橋弁慶 笛の巻
笛の巻(前) シテ 常磐御前 子方 牛若丸 ワキ 羽田秋長 橋弁慶(後) シテ 武蔵坊弁慶 トモ 従者 子方 源牛若 九月 〔笛の巻〕 ワキ詞「斯様に候者は。義朝の御内に在し羽田の十郎秋長にて候。扨も義朝の御子常磐の御腹には三男。牛若殿と申て御座候を。学問の為に鞍馬の寺へ御登せ御座候処に。学問をばし給はで。夜な〳〵五条の橋に出で。数多の人を御斬り候。上下の煩ひかた〴〵以て然る可らず候程に。常磐の御方に参り。此事を御教訓させ申さばやと存候。いかに申し候。秋長が参りて候。 シテ母「何秋長と申すか此方へ来り候へ。扨唯今は何の為に来りたるぞ。 ワキ「唯今参る事余の義に非ず。鞍馬の寺に御座候牛若殿。夜な〳〵五条の橋に御出であつて。数多の人を御斬り候。上下の煩ひかた〴〵以て然る可らず候へば。此方へ御申あつて。御教訓あれかしと存候。 シテ「扨牛若殿はいづくに渡候ぞ。 ワキ「あれに御座候。 シテ「此方へと申候へ。 ワキ「畏て候。此方へ御参候へ。 シテ「いかに牛若殿。此程は寺にあるかとこそ思しに。何とて此方へは下りたるぞ。 牛若「さん候久しく母上を見参らせず候程に参りて候。 シテ「いや〳〵お事の心を見るに。思ふといふも虚言よ。今程平家の公達の肩を並べしを争ひ。同じ寺中にあるとても。学問にだに勝れなば。他山の聞え寺家の覚え。かた〴〵母も嬉しう思ふべきに。学問をこそせざらめ。夜な〳〵五条の橋に出で。人を失ふ由を聞くぞとよ。まこと左様にあるならば。母と思ふな子とも亦。 同「思ふまじげによしなやな。か程に母は思へ共。其かひ更になき上は。しかりてもよしぞなきうたての者の心や。 上歌「よしやよし親子をも。〳〵。思ひ思はぬ中ならば。中々に安からぬ。御身の為は然るべし。いかなれば畜類。又は空飛び翔る鳥も。其ことわりを知ればこそ。鳩に三枝の礼をなし。烏きう〳〵の。孝行なるはいかばかり。などや御身は不孝なると。しかれば牛若も。手を合せ立寄りて許し給へと泣き居たり。 クセ「おことまたいとけなかりし時よりも。父に離れてむざんやな。敵の手にも渡りなば。いかなる淵川の。瀬にも沈みもやせましと。心にかけて思ひ寝の。夢の一時。花の夕べの山颪。声高く泣く時は。六波羅の人やもし。聞くらんものを悲しやと。忍びて落ちしも今思ひでの涙かな。 ロンギ牛若「母の仰の重ければ。明けなば寺へ登るべし。去乍ら此笛に。えたる便のあるぞとは。いかなる謂候ぞ。 母「げに理の不審かな。是は弘法大師とて。貴き人の御笛を。伝へたる故なれば。斯様に我もいふぞとよ。 牛若「抑や大師の御事は。久しき事と聞ものを。伝へ給ふはいかならん。 母「是はもと入唐の。商人もてる笛なるに其虫喰のあるぞとよ。 牛若「扨はしるしの何ぞとも。現はし給ふ文字やらん。委しく語りおはしませ。 母「是御覧ぜよ今迄は。人にも隠し御身にも。 牛若「見せさせ給ふ事もなきに。 同「今こそ委しくは。見も明石潟島隠れ。並ぶや蟬のもとに。巻き隠したる錦を。解きて能く見れば。不思議やな虫喰の。一万五千。三百余歳経て。弘法大師の。御手に渡り其後に。義朝の末の子牛若が手に渡るべしと。確かなる虫喰。かたじけなやと戴き。明けなば寺に登るべし。かまえておこと偽はるな。又よと母はいひすてゝ常のすみかに入りにけり常のすみかに入りにけり。 牛若詞「いかに羽田。母の仰の重ければ。明けなば寺へ登るべし。今宵ばかりの名残なれば。五条の橋に出で。たち待ちに月を眺めうずるにてあるぞ。 ワキ「畏つて候。(是より外の巻橋弁慶の 牛若一声「扨も牛若は母の仰の重ければ へ続くとなり) 〔橋弁慶〕 牛若一声「扨も牛若は。母の仰せの重ければ。明けなば寺へ登るべし。今宵ばかりの名残なれば。五条の橋に立出て。川波そへて立ち待ちに。月の光を待つべしと。 一声「夕波の。気色はそれか夜嵐の。夕べ程なき。秋の風。 上歌同「面白の気色やな。〳〵。そゞろうきたつ我心。波も玉散る白露の。夕顔の花の色。五条の橋の橋板を。とゞろ〳〵とふみならし。音も静かに更くる夜に。通る人をぞ待ち居たる〳〵。 シテ詞一声「既に此夜も明け方の。三塔の鐘もすぎまの雲の。光りかゝやく月の夜に。着たる鎧は黒革の。おどしに縅せる大鎧。草摺長に着なしつゝ。もとより好む大長刀。真中取て打ちかつぎ。ゆらり〳〵といでたる有様。いかなる天魔鬼神なり共。面を向べきやうあらじと。我身ながらも物頼もしうて。手にたつ敵の。恋しさよ。 牛若「川風もはや更過ぐる橋の面に。通る人もなきぞとて。心すごげに休らへば。 シテ「弁慶かくとも白波の。立より渡る橋板を。さも荒らかに踏み鳴らせば。 牛若「牛若彼を見るよりも。すはやうれしや人来るぞと。薄衣猶もひきかづき。傍によりそひ佇めば。 シテ「弁慶彼を見つけつゝ。詞をかけんと思へ共。見れば女の姿なり。我は出家の事なれば。思ひ煩ひ過てゆく。 牛若「牛若彼をなぶつて見んと。行き違ひさまに長刀の。柄元をはつしと蹴上ぐれば。 シテ「すはしれ者よ物見せんと。 同「長刀やがてとり直し。〳〵。いで物見せん。手なみの程と。斬つてかゝれば牛若は。少しも騒がずつゝ立ち直つて。薄衣ひきのけつゝ。しづ〳〵と太刀ぬき放つてつゝ支へたる長刀の。きつさきに太刀打合せ。つめつ開いつ戦ひしが。何とかしたりけん。手許に牛若よるとぞ見えしがたゝみ重ねて打つ太刀に。さしもの弁慶合せかねて。橋桁を二三間。しさつて。肝をぞ消したりける。あら物々しあれほどの。〳〵。小性一人を斬ればとて。手なみにいかで洩らすべきと。長刀柄長くおつ取りのべて。走りかゝつてちやうと切れば。そむけて右に。とびちがふ取直して裾を。なぎ払へば。踊り上つて足もためず。宙を払へば頭を地につけ。千々に戦ふ大長刀。うち落されて力なく。組まんとよれば。切り払ふすがらんとするも便なし。せん方なくて弁慶は。稀代なる少人かなとて。あきれ果てゝぞ立つたりける。 ロンギ同「ふしぎや御身誰なれば。まだいとけなき姿にて。かほどけなげにましますぞ。委しく名のりおはしませ。 牛若「今は何をか包むべき。我は源牛若。 地「義朝の御子か。 牛若「さて汝は。 地「西塔の武蔵。弁慶なり。互に名のり合ひ。〳〵。降参申さん御免あれ少人の御事。我は出家。位も氏もけなげさも。よき主なれば頼むなり。卒忽にや思しめすらんさりながら。これ又三世の機縁の始め。今より後は主従ぞと。契約堅く申しつゝ。薄衣かづかせ奉り弁慶も長刀打ちかついで。九条の御所へぞ参りける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『観世流謡曲錦囊 巻之三(橋弁慶)・巻之四(笛の巻)』観世流謡曲同志研究会 編