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松山天狗


ワキ 西行
シテ 老翁


シテ 崇徳院
ツレ 相模坊

地は 讃岐
季は 春

ワキ次第「風の行方をしるべにて。〳〵。松山にいざや急がん。
詞「是は嵯峨の奥に住居する西行法師にて候。さても新院本院位を争ひ。新院うち負け給ひ。讃岐の国へ流され。松山と申す処にてほどなく崩御ならせ給ひたるよし承り及び候ふほどに。御跡弔ひ申さん為めに。唯今讃岐の国へと急ぎ候ふ。
道行「思ひ立つ。心も西に行く月の。〳〵。幾夜な夜なの仮枕。その数いさや白雲の。斯かる旅寐を過し来て。讃岐の国に着きにけり。〳〵。
詞「急ぎ候ふほどに。讃岐の国に着きて候。人を相待ち新院の御廟処松山を尋ねばやと思ひ候。
シテ一声「道芝の。露踏み分くる通路の。山風さそふ心かな。
ワキ詞「いかに是なる尉殿。御身は此あたりの人にてましますか。
シテ詞「さん候是は此あたりの者にて候。御僧は何くより何方へ御通り候ふぞ。
ワキ「是は都嵯峨の奥に住居する西行と申す者にて候ふが。新院この讃岐の国へ流され給ひ。ほどなく崩御ならせ給ひたる由承りて候ふほどに。御跡を弔ひ申さん為め是まで参りて候。松山の御廟所を教へて賜はり候へ。
シテ「さては天下に隠れなき西行上人にてましますかや。先づあれに見えたる大山は白峯と申す高山なり。少しあなたに見え候ふこそ。新院の御廟所松山にて候へ。御道しるべ申さんと。御僧をいざなひ奉り。
地「行方も知らぬ旅人に。〳〵。はや馴れそめて色々の。情ある言の葉の。心の内ぞありがたき。まだ蹈みも見ぬ山道の。岩根を伝ひ谷の戸の。苔の下道たどり来て。風の音さへ冷ましき。松山に早く着きにけり。〳〵。
シテ詞「是こそ新院の御廟処松山にて候へ。なんぼうあさましき御有様にて候ふぞ。
ワキ詞「さては是なるが新院の御廟にてましますかや。昔は玉楼金殿の御住居。百官卿相にいつかれ給ひし御身の。かゝる田舎の苔の下。人も通はぬ御廟処のうち。涙も更にとゞまらず。あら御痛はしや候。かくあさましき御有様。涙ながらにかくばかり。よしや君昔の玉の床とても。かゝらん後は何にかはせん。
シテ「あら面白の御詠歌や。賤しき身にも思ひやりて。西行を感じ奉れば。
ワキ「実にや処も天ざかる。
地「鄙人なれどかくばかり。〳〵。心しらるゝ老の波の。立ち舞ふ姿まで。さもみやびたる気色かな。春を得て咲く花を。見る人もなき谷の戸に。鳴く鶯の声までも。処からあはれを。催す春の夕べかな。
ワキ詞「如何に尉殿。君御存命の折々は。いかなる者か参り御心を慰め申して候ふぞ。
シテ詞「君御存命の折々は。都の事を思し召し出だし。御逆鱗の余りなれば。魔縁みな近づき奉り。あの白峯の相模坊にしたがふ天狗ども。参るより外は余の参内はなく候。かやう申す老人も。常々参り木陰を清め。御心を慰め申しゝなり。さても西行唯今の詠歌の言葉。肝に銘じて面白さに。老の袂をしぼるなり。
地「暇申してさらばとて。又立ち帰る老の波。翁さびしき木の本に。立ち寄ると見えしが。影の如くに失せにけり。(中入)
後ジテ「五薀もとより皆是空。何によつて平生の身を愛せん。軀を守る幽魂夜月に飛ぶ。いかに西行。是まではる〴〵下る心ざしこそ。返す〴〵も嬉しけれ。又唯今の詠歌の言葉。肝に銘じて面白さに。いで〳〵姿を顕はさんと。
地「いひもあへねば。御廟しきりに鳴動して。玉体あらはれおはします。誠に妙なる玉体の。〳〵。花の顔ばせたをやかに。こゝも雲井の都の空の。夜遊の舞楽は面白や。(舞)
地「かくて舞楽も時過ぎて。〳〵。御遊の袂を返し給ひ。舞ひ遊び給へば又古への。都の憂き事を思し召し出だし。逆鱗の御姿。あたりを払つて恐ろしや。
地「あれ〳〵見よや白峯の。〳〵。山風あらく吹き落ちて。神鳴り稲妻しきりに満ち〳〵。雨遠近の雲間より。天狗の姿は顕はれたり。
ツレ「そも〳〵是は。白峯に住んで年を経る。相模坊とは我事なり。さても新院思はずも。此松山に崩御なる。常々参内申しつゝ。御心を慰め申さんと。小天狗を引き連れて。
地「翅を並べ数々に。〳〵。此松山に随ひ奉り。逆臣の輩を悉く。取りひしぎ蹴殺し。会稽をすゝがせ申すべし。叡慮を慰めおはしませ。
シテ「其時君も悦びおはしまし。
地「其時君も悦びおはしまし。御感の御言葉数々なれば。天狗もおの〳〵。頭を地につけ拝し奉り。是までなりとて小天狗を。引きつれ虚空にあがるとぞ見えしが。明け行く空も白峯の。明け行く空も白峯の梢に。又飛びかけつて失せにけり。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第五輯』大和田建樹 著

次の書物から能「松山天狗」と関係の深い部分を掲載しています。
併せて内容の把握にお役立てください。

  • 台記 久寿二年八月二十七日条
    崇徳院周辺には、天狗の影がもともと全くなかったというわけでもありませんでした。鳥羽法皇存命中のこと、崇徳院と近しい藤原頼長はその日記に、父忠実とともに愛宕山の天狗像の目に釘を打ち付け、近衛天皇を呪殺した嫌疑をかけられたと記しています。
  • 白峯寺縁起
    白峯寺(香川県坂出市)の本尊千手観音の来歴と、寺が管理してきた崇徳院の廟所にまつわる逸話が記されています。
  • 撰集抄 新院ノ御基讃州白峯ニ有(レ)之事
    通常、謡曲「松山天狗」の典拠は撰集抄と説明されます。撰集抄は西行が諸国を行脚する途中で見聞したあれこれに仏の教えを付す仏教説話集で、西行とは別の人物が西行の体裁をとって書き綴った書物だということがわかっています。
  • 山家集
    讃岐にいる崇徳院との歌のやりとりが西行その人によって記されています。
  • 長秋詠藻 下
    崇徳院が辞世の長歌を託したのは藤原俊成でした。俊成に長歌が届けられたのは崩御後のことで、俊成の返歌を崇徳院が手にすることはなく、俊成はやむなくおたぎ(=愛宕寺)でひっそりと供養させたと述べています。
  • 今鏡 第二 すべらぎの中 八重の汐路
    崇徳院がどうした因縁で讃岐に流されたかの理由として、崇徳院は昔同じように讃岐に流されてきて、白峯の聖と呼ばれた阿闍梨の生まれ変わりだったと述べられます。

 

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保元物語 新院御経沈メ附崩御ノ事

さる程に新院は、八月十日御下着のよし、国より御請文到来す。此の程は松山に御座ありけるが、国司既に直島といふ処に、御所を造り出されければ、それに遷らせおはします。四方の築垣築き、唯口一つあけて、日に三度の供御進らする外は、事問ひ奉る人もなし。さらでだに習はぬ鄙の御住居は悲しきに、秋も漸う闌け行くまゝに、松を払ふ嵐の音、叢に呼ばる虫の声も心ぼそく、夜の雁の遥に海を過ぐるも、故郷に言伝せまほしく、暁の千鳥の洲崎にさわぐも、御心砕く種となる。我が身の御歎きよりは、僅に附き奉り給へる女房たちの伏し沈み給ふに、愈よ御心苦しかりけり。
朕、遥に神裔を受けて天子の位を践み、太上天皇の尊号を蒙りて、枌楡の居をしめき。先院御在世の間なりしかば、万機の政を心に任せずといへども、久しく仙洞の楽に誇りき。思出なきにあらず。或は金谷に花を翫び、或は南楼の月に吟じ、既に三十八年を送れり。過ぎにし方を思へば、昨日の夢の如し。如何なる前世の宿業にか、かゝる歎に沈むらん。縦令鳥の頭白くなるとも、帰京の期を知らず。定めて望郷の鬼とぞならんずらん。偏に後世の御為とて、五部の大乗経を、三年が程に御自筆に遊ばして、貝鐘の音も聞えぬ処に、置き奉らんも不便なり。八幡山か高野山か、若し御免あらば、鳥羽の安楽寿院の御墓に置き奉りたきよし、平治元年春の比、仁和寺の御室へ申させ給ひしかば、五ノ宮よりも、関白殿へ此の由伝へ申させ給ふ。
殿下より、能き様に執り申させ給へども、主上終に御許されもなくして、彼の御経を即ち返し遣はされ、御室より、「御とがめ重くおはします故、御手跡なりとも、都近く置かれ難き由承り候間、力及ばず」と御返事ありければ、法皇此の由聞こし召して、「口惜しきことかな。我が朝にも限らず、天竺震旦にも、国を論じ位を諍ひて、伯父姪謀反を起し、兄弟合戦を致す事なきにあらず。我れ此の事を悔い思ひ、悪心懺悔のために此の経を書き奉る所なり。然るに筆跡をだに都に置かざる程の儀に至つては力なし。此の経を魔道に廻向して、魔縁となりて遺恨を散ぜん」と仰せければ、此の由都へ聞えて、御有様見て参れとて、泰頼を御使に下されけるが、参りて見奉れば柿の御衣のすゝけたるに、長頭巾をまきて、大乗経の奧に御誓状を遊ばして、千尋の底に沈め給ふ。其の後は御爪をもはやさず、御髪をも削らせ給はで、御姿を窶し、悪念に沈み給ひけるこそ恐しけれ。かくて八年おはしまして、長寛二年八月二十六日、御歳四十六にて、志度といふ所にて崩れさせ給ひけるを、白峰といふ所にて煙になし奉る。
此の君怨念に依つて、生ながら天狗の姿にならせ給ひけるが、其の故にや中二年ありて、平治元年十二月日、信頼卿に語らはれて、義朝大内にたて籠り、三条殿を焼き払ひ、院、内をも押し籠め奉り、信西入道の一類を滅ぼし、掘り埋まれし信西が死骸を掘り起し、首をば大路をわたしけり。絶えて久しき死罪を申し行ひ、左府の死骸を辱しめなど、余りなる事申し行ひしが果す所なり。去んぬる保元三年八月二十三日に、御位春宮に譲り給ふ。二条ノ院是なり。院と申すは、先帝後白河の御事なり。信頼も忽ちに滅びぬ。義朝も平氏に打ち負けて落ち行きけるが、尾張ノ国にて相伝の家人、長田ノ荘司忠致に討たれて、子共皆死罪流罪に行はる、誠に乙若宣ひけるが如くなり。栴檀は二葉より香しく、迦陵頻は卵の中に妙なる音あるが如く乙若幼けれども、武士の家に生れて、兵の道を知りけることこそあはれなれ。此の乱は讃岐ノ院いまだ御在世の間に、まのあたり御怨念の致す所と人申しけり。
仁安三年冬の頃、西行法師、諸国修行の序に白峯の御墓に参りて、つく〴〵と見参らせ、昔の御事思ひ出し奉りて、かうぞ詠み侍りける。
   よしや君昔の玉の床とてもかゝらむ後は何にかはせむ
治承元年六月二十九日、追号ありて崇徳院とぞ申しける。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『保元物語評釈』鳥野幸次 著

 

 

〔口訳〕八月十日新院御到着の由、讃岐国からの報が著いた。松山にお出になつたが、国司が直島といふ所に御所を御造営したので、其処へお遷り遊ばした。四方に築垣を築き、門一つ、日に三度の供御を奉る外は、訪ふ人もない淋しい鄙の御住居であつた。
(お淋し気な御様子を原文には次の如く述べてゐる。)
さらでだに習はぬ鄙の御住居はかなしきに、秋もやう〳〵更け行くまゝに、松をはらふ嵐の音、草叢によばる虫の声も心細く、夜の雁の遥かに海を過ぐるも故郷に言伝せまほしく、暁の千鳥の洲崎に騒ぐも、御心をくだく種となる。我身の御嘆よりは、僅かに付奉り給へる女房たちの伏し沈み給ふに、弥々御心ぐるしかりけり。
新院は佗しい配所の御住居に、明け暮れ在りし日の夢を追ひ給ひ、「望郷の鬼とならん。」と仰せられたが、御発念あつて五部の大乗経を三年間かゝつて御写経遊ばされ、貝鐘の音も聞えぬ所に置くのを残念に思召して、八幡山か高野山、御許があるならば鳥羽の安楽寿院の故鳥羽法皇の御墓所へ奉納し度き旨、仁和寺の五の宮へ申入れさせられた。五の宮から関白忠通へ此由お伝へになり、忠通は色々御取計らひ申上げたが勅許なく、御写経を御戻し遊ばされたので、御室から書を添へて御返しになつた。
「御咎が重くて、御手跡たりとも都近くへは置けません。御気の毒に存じますが、何とも致方が御座いません。」
新院は御返事を御覧遊ばされて御無念に思召された。
「残念な事だ。此度の事に就いては自分も悔ひ、悪心懺悔の為に此写経をしたのだ。それに筆跡さへも都に置かない程の取扱ひを受けては仕方がない。此経を魔道に回向して、魔縁となつて遺恨を晴らさう。」
と御恨み遊ばされた。此由が都へ聞えたので、康頼を御使として讃岐へ検分に差遣はされたが、柿の御衣の煤けたのに、長頭巾を召され、大乗経の奥に御血を以て御誓状を認め、千尋の海底に御沈め遊ばされた。其後は御爪もお切り遊ばさず、御髪もそのまゝに、御姿を変へて悪念に沈ませられた。
斯くして八年の間お暮し遊ばされ、長寛二年八月二十六日、御齢四十六歳で志戸といふ所で崩御遊ばされ、白峰といふ所で荼毘に附し奉つた。
新院の御怨念によつてか、御配流の後三年目、平治元年十二月九日、信頼に語らはれて義朝が大乱を起し、三条殿を焼き払ひ、院(後白河院)及び主上(二条天皇)を押し込め奉り信西の一類を亡ぼしてその死骸を掘つて首をさらす様な有様となつた。結果は康頼・義朝共に滅んだが、まことに乙若の言つた様になつた。旃檀は二葉より薫しいと言ふ通り、乙若は幼少ではあつたが武門に生まれ兵の道を心得てゐた。
仁安三年の冬、西行法師が諸国修行の途次、白峰の御陵に参拝して往時を思ひ出でて、一首を詠じた。
   よしや君むかしの玉の床とてもかゝらむ後は何にかはせむ
治承元年六月二十九日崇徳天皇と御追号があつた。

本書は共訳者のうち、能勢朝次が担当しました。
底本:国立国会図書館デジタルコレクション『物語日本文学 第二期 第五巻 保元物語・平治物語』藤村作 等 訳

 

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台記 久寿二年八月二十七日条

親隆朝臣来語曰、所以法皇悪禅閤及殿下余者、先帝崩後、人寄帝巫口、曰、先年人為朕、打釘於愛宕護山天公像目、故朕目不明、遂以早世、法皇聞召其事、使人見件像、既有其釘、即召愛宕護山住僧之、仰申云、五六年之前有夜中(此間蠹損)、美福門院及関白、疑入道及左大臣所為、法皇悪之、雖信、天下道俗所申如此、先日成隆朝臣略(一字蠹損)、此事、今聞両人説、怖畏不少、但禅閤及余、唯知愛宕護山天公飛行、未知愛宕護山有天公像、何況祈請乎、蒼天在上、白日照、怖々、

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『参考保元物語・参考平治物語』今井弘済、内藤貞顕 編

 

 

親隆朝臣来り語りて曰く、法皇、禅閤(忠実)及び殿下(頼長)を悪まるゝ所以は、先帝(近衛)崩じて後、人帝を巫の口に寄するに、曰く、先年朕を詛はん為に釘を愛宕護山天公の像の目に打つ、故に朕が目明かならず。遂に以て早世すと。法皇其の事を聞こし召し、人をして件の像を見せしむるに、既に其の釘あり。即ち愛宕山の住僧を召し、之を問ふ。仰せ申して云ふ、五六年の前、夜中(此の間蠹損あり)美福門院及び関白、疑ふらくは、入道及び左大臣の為す所なりと。法皇之を悪むと。信を取り難しといへども、天下の道俗申す所斯くの如しと。先日成隆朝臣略(一字蠹損)此の事今両人の説を聞く、怖畏少からず。但し禅閤及び余は、唯愛宕山の天公の飛行を知るのみ。末だ知らず、愛宕護山に天公の像あるを。何ぞ況んや祈誓をや。蒼天上に在り白日照す。怖々。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『保元物語評釈』鳥野幸次 著

 

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白峯寺縁起

夫讃岐国白峯寺は、弘法・智証両大師の建立なり。弘法は先此山に登て、峰には宝珠を埋み、阿伽井をほり行給ふ。彼の宝珠の地滝つほとなれり。三方へ落水増減なし。智証大師の帰朝の初、金蔵寺に止住して行業薫修をつまれしに、貞観二年十月一日子剋に、当国北条の郡大椎の興に楂出現す。光明海上をてらし、異香国内に薫す。国司怪給ひて、円珍和尚に尋申さる。同三日、和尚十峯山に攀登て瑞光を見給ふに、彼山上に霊堀(崛)あり。瑞光かの崛に通せり。希有の思をなし給ふところに、老翁一人現して云く。吾は此山擁護の霊神、爾は法輪弘通の聖者なり。此崛は七仏法輪を転、慈尊入定の地也云々。即山中を巡検。東谿の水門は吉水の字形なり。艮の洞の苔径は根香の字形なり。西峰の大石に白峯の字を書す。南窪に和尚休息の処白牛出現す。妙法二字背の毛に備ふ。かの蹄跡千手観音の像体也。そのゝち海浜に趣(赴)き祈念し給ふ処、虛空に音ありて、補陁落山より流来れりと示。大師と明神とあひともに山中に引入、十体の本尊を造立し給。四十九院を草創し給。其内に千手像四体まします。一尊をは根香寺に安置し、一尊をは吉水寺にあむちし、一尊をは白牛寺にあむちし、一尊をは当寺に安置す。今も千手院とて、霊験無双の道場、利生広大の聖容にてましますなり。こゝに崇徳院と申は、鳥羽院の長子、御はゝは待賢門院とそ申まいらせし。保安四年正月廿八日に御位につき、一天風をさまり、四海浪しつかにして、山も万歳の音をよひ、河も一清の色をあらはす。御治世十八年になりしに、永治元年十二月七日、近衛院三歳にて御位にゆへなくかはり給ふ。これも鳥羽院第七の御子なれとも、美福門院の御腹にて、御寵愛はなはたしかりし故也。御治世十四年にて、久寿二年七月廿三日に崩御なりしかは、御位は崇徳院の御嫡子重仁親王にてわたらせ給ふへきに、鳥羽院第四の御子後白河院、位につき給ふ。これも待賢門院の御腹なれは、崇徳院とも同腹にて、よそならぬ御ことなれと、美福門院の養たてまいらせさせ給へは、近衛院の御かはりに、女院の御口入にてなむと、人々申あひけれは、いよ〳〵御恨もふかくなりて、父子兄弟の御中もこゝろよからす。さる程に鳥羽院、保元々年七月二日、五十四にて崩御なりしかは、主上々皇の御中も、日にそへてをたやかならす。近習の人々も、面々にあらそふ事ともそ多かりける。其比宇治の左大臣頼長公と申しゝは、智足院殿三男にて、和漢の才学、礼儀の軌則昔も今もありかたく、摂籙の器量にてまし〳〵けるか、兄の法性寺殿の、詩歌の秀逸、手跡の名芳わたらせ給ふをも、つねにそしり申され、詩哥は閑居の翫也、王宮の政要にあらす。手跡は遊戯の興なり、賢人の法行にあらす。必しも是に遑をついやすへからすと仰られ、内外に仁義をことゝし、上下に善悪をたゝして免すかたなかりしかは、時人悪左府とそ申待りし。新院の御方にては、諸事はからひ申さるゝ人にてそましましける。爰に父鳥羽法皇崩御わつかに十ヶ日をたにもすきさるに、保元々年七月十一日卯剋に御合戦ありしかは、天神地祇も御ゆるされやなかりけむ、新院官軍やふれしかは、やかて知足院の僧坊にて御出家ありて、御戒の師仁和寺の寬遍法務の住坊に御寄宿あり。御製云。
   おもひきや身をうき雲になしはてゝあらしのかせにまかすへしとは
   うきことのまとろむほとはわすられてさむれはゆめのこゝちこそすれ
同廿三日、新院讃岐国へうつしたてまつるへきよし宣下せらる。御使には右少弁資長なり。其夜すなはち仁和寺をいてさせ給ふ。美濃前司保茂(成)か車をめさる。女房三人同御車にまいらる。守護の武士には、重成鳥羽まてまいりけり。季行幷武士三人、讃州まて御共申けり。八月三日、讃岐国松山津に御下着。在庁野大夫高遠か御堂にをきたてまつりて、三ヶ年を送り給ふ。其柱に御詠歌あり。
   こゝもまたあらぬ雲ゐとなりにけりそらゆく月のかけにまかせて
この御製今にのこりてこれあり。其後国苻甲知郷鼓岳(丘)の御堂にうつしたてまつり、六年をへて長寬二年八月廿六日に、御年四十六と申に崩御ならせまします。ことの子細を京都へ注進の程、野沢井とて清水のあるに、玉体をひやし申、廿日あまり都の御左右を待たてまつる。かの水薬水となりて、今に国中に汲もちゐる事侍へり。さて同九月十八日戌の時に、当寺の西北の石巌にて荼毘したてまつる。これも御遺詔の故なり。国苻の御所を、近習者なりし遠江阿闍梨章実、当寺に渡て頓証寺を建立して、御菩提をとふらひたてまつる。仁安元年神無月の比、西行法師四国修行の時、彼廟院にまふてゝ、負をは庭上の橘の木に寄掛て、法施たてまつりけるに、御廟震動して、御製云、
   松山やなみになかれてこしふねのやかてむなしくなりにけるかな
西行涙をなかして、御返事に、
   よしや君むかしの玉のゆかとてもかゝらんのちはなにゝかはせん
と申たりけれは、御納受もやありけむ、たひ〳〵鳴動したりけるとなむ。
代々の聖主、世々の武将も、恐あかめたてまつり給ふ。安元三年七月廿九日、讃岐院と申しゝを改て、崇徳院とそ追号申されける。其外或は社壇をつくり弥崇敬し、或は庄園をよせて御菩提をとふらふ。今の青海・河内は治承に御寄進、北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にて侍るなり。治承・元暦の乱逆も、彼の院の御怨念とそきこえし。御在国九ヶ年の内に、五部大乗経を一筆にあそはされて、都に上させたまふとて、
   浜千鳥あとは都にかよへとも身は松山に音をのみそなく
しかるを、少納言入道信西、讃岐院の御経の功力にては、都をそ呪咀せさせ給ふらむと、申たりけるによむて、御経を返下させ給ける。此時大に瞋恚をおこさせ給て、我大魔王となりて、天下を我まゝにせんと御誓ありて、小指をくひきらせ給て、五部大乗経の箱に、龍宮城に納給へとあそはして、椎途の海に浮させ給ひたりけれは、海上火にもえてみえけるに、童子出て舞をまひて納ける。そのとき讃岐院、さては我願成就しけりとて、御くしをもそらす、供御をもまいらすしてまし〳〵けるに、御笛の師参たれとも、御姿の見苦さに御対面なかりけれは、御笛師、
   おもひきや木のまろとのをたつねきてあはてむなしくかへるへしとは
御返事に、御指をくひきりたる血にて、帰すへしとはとあそはされて、本の哥を返させ給ひけり。まことに大魔王ともならせ給ふやらむ、今も御廟所には、番の鵄とて毎日一羽祗候するなり。かの野沢の井の辺に社壇をかまへ、天王の社と申侍り。正面門客人には、為義・為朝父子の影像をつくりたり。平家西海にたゝよひけるも、彼怨念ならすや。されは寿永三年七月卅日、平大納言時忠卿已下緇素十余人、彼御廟に参て、詩哥をたてまつりし序にいはく。昔は紫震殿の本主也、有便于謐朝家之敵讐、今は金方刹の新賓也、無妨于護日域之社稷を、とそ書たりける。
凡御本地は十一面にてましますなり。其故は、北面の一﨟にてありしか入道して行西と申しゝか、八幡に七日参籠して、崇徳院の霊威、大菩薩の冥慮一体にて坐すやらむと祈念するに、夢想に、若宮の御殿より御戸を排て女房出て、我崇徳院の本地よと示給。此宮の御本地十一面なれは、それよりそか様に申付たる。土御門院阿波国にて御違例ありしかは、湛空上人をめして、善知識にをかれしに、寛喜三年十月三日夢に、御持仏堂の前の一間に御車を寄たり。御簾を半あけて、御肩より上は見えす。御束帯のさまなり。御車の中より仰られて云。御訪のために参たりと奏へしと。湛空誰人にて御坐やらむと思惟するところに、讃岐院と号するなりと。今度御寿命はたすかるへからす。但子孫をは守護すへきなりと奏せよとて、御車は出と覚けれは、事の外に大なる車なり。供奉の人は毘沙門天皇(王)なむとのことくなる者、一万人もあるらむと覚えける。此事申上たりけれは、さては寿命は叶へからす、子孫擁護こそたのもしけれとて、日比御所持の唐本の法花経一部、御廟へ送たてまつらる。後嵯峨院は土御門院御子にてまします。童形にて成興寺の真忠法印のもとへ入室給しか、御得度あるへきにてありしかは、或時は御冠の姿水にうつり、或時は御かみそりを留ることなむとありしかは、皆人不思議の思をなしたてまつりて、御得度はなかりしに、仁治三年正月九日、四条院にはかに崩御なりぬ。佐渡院の皇子御位につくへきよし、関東にて評定ありて、使には三浦介已立たるところに、霊神の御告もやありけむ、かさねて評定ありて、土御門院御子にさたまりぬ。使には秋田城介義景にて有けるか、立還て申けるは、先日の御使によりて、佐渡院の宮御践祚あらは、いかゝ仕らむと申たりけれは、其をはすへらかしまゐらせて、つけ申へしと仰を承て罷立けり。神妙にも申たりとそ、人々美談せられけり。而に先日の使よりもさきに上洛して、相違なく後嵯峨院位につき給ふ。これ併湛空上人か夢想のしるしと馮しくそ覚えし。されは建長四年十一月の比、唐本の法華経一部をくりまいらせさせ給。翌年松山郷を寄られ、御菩提のため十二時不断の法花の法を始をかれ、廿一口の供僧勅請として、各廿一通の御手印の補任を下さる。当寺の禅侶は、俗姓の高卑を論せす、卿相に準へきよしの院宣を給はる。是皆廟院を尊崇し給故なり。又六年より法華会を行はる。法会の儀式公家より定下さる。梵讃風にこたへ香花雲にたなひく。嶺松のすかた、滝水の声自然なれは、廟神の納受うたかひなし。当寺の霊験かきつくしかたきものをや。かゝるところに永徳二年十月十九日戌剋に、天火下て当寺回禄す。千手院本尊も焼失し給ぬ。一寺の周章、万人の愁嘆、祇園精舍の当初も思いたされ、鶴林涅槃の半更の式にもにたり。貴賤肝をけし男女魂をうしなふ。こゝに衆徒中に信澄阿闍梨といふもの、霊夢の事あり。俗来て告云。我六十六ヶ国に、六十六体の本尊を安置すへき大願あり。白峯寺本尊をは早造立し申たり。渡奉へしと示して夢覚ぬ。其後国中に白牛寺の本尊、当時富家の来迎院の釈迦堂に御坐せは、当寺の本尊になり給ふへしと風聞する程に、誰人の申いたしたる事やらむ、心もとなくて、来迎院へ使を遣てたつぬるところに、更存知なきうへ、私にとかく許申へきにあらさるよし返答ありしかは、中々是非に及はさりしに、四国大将細川武蔵守入道常久、折節在国の事なりしかは、此事きゝ給て、我も私にはからふへきことならすなんとして、年月をへけるに、武州夢想の告ありとて大驚て、同四年五月廿六日に、当寺へ渡したてまつらる。此本尊は智証大師の御作、御衣木も元本尊同御事なれは、冥慮のいたす故やらむと、たんとくもたのもしくもこそ覚けれ。されは彼本尊渡奉る日は、天地人の三統白峯に動、日月星の三光紫雲に耀て、人々の面も金色に変て見と申あひ侍し。末代なから希代の瑞相ともにてそありけむ。

当寺事、代々旧記雖レ有レ之、未レ載二縁起一之間、今度再興之次、以二記録等一奉レ示。清少納言入道常憲草レ之、即侍従宰相行俊卿清二書之一。為二後証一注レ之。
 于時応永拾三年孟秋廿五日也
 (別筆)応永十三年七月十七日

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『香川叢書 第一』香川県 編

 

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撰集抄 新院ノ御基讃州白峯ニ有之事

過にし仁安の比。西国はる〴〵修行つかまつり侍りし次に。讃州見を坂の林と云所に。しばらく住侍りき。深山辺のならの葉にて。庵りむすびて。つま木こりたく山中のけしき。花の木ずえによする風。誰とへとてかよぶこ鳥。よもぎのもとのうづら。日終にあはれならずといふ事なし。長夜のあか月。さびたる猿の声を聞に。そゞろにはらわたを断侍り。かゝる栖は後の世の為としも侍らねども。心そゞろにすみておぼゆるにこそ。かくても侍るべかりしに。うき世の中には。思をとゞめじと思侍りしかば。立はなれなんとし侍りし程に。新院の御墓所をおがみ奉らんとて。白峯と云所に尋参り侍りしに。松の一村しげれるほとりに。くぎぬきしまはしたり。是ならん御墓にやと。今更かきくらされて物も覚えずまのあたり見奉りし事ぞかし。清涼紫宸の間にやすみし給て。百官にいつかれさせ。後宮後房のうてなには。三千の翡翠のかんざしあざやかにて。御まなじりにかゝらんとのみ。しあはせ給ひしぞかし。万機のまつりごとを。掌ににぎらせ給のみにあらず。春は花の宴を専にし。秋は月の前の興つきせず侍りき。あに思きや。今かゝるべしとは。かけてもはかりきや。他国辺土の山中の。おどろのしたにくち給ふべしとは。貝鐘の声もせず。法華三昧つとむる僧一人もなき所に。只峯の松風のはげしきのみにて。鳥だにもかけらぬありさま。見奉るにそゞろに涙を落し侍りき。始あるものは終りありとは聞侍りしかども。未かゝるためしをば承侍らず。されば思をとむまじきは此世なり。一天の君。万乗のあるじも。しかのごとくの。苦みをはなれまし〳〵侍らねば。せつりもしゆだもかはらず。宮もわらやも共にはてしなきものなれば。高位もねがはしきにあらず。我等もいくたびか。彼国王ともなり給ひけんなれども。隔生即忘して。すべておぼえ侍らず。只行てとまりはつべき。仏果円満の位のみぞ。床しく侍る。とにもかくにも。思つゞくるまゝに。涙のもれいで侍りしかば。
   よしや君昔の玉の床とても。かゝらん後はなにゝかはせん
とうちながめられて侍りき。盛衰は今にはじめぬわざなれども。ことさら心驚かれぬるに侍り。さても過ぬる保元の初の年。秋七月の比をい。鳥羽の法王はかなくならせ給しかば。一天村雲迷て。花の都くれふたがり侍りて。含識のたぐひうつゝ心も侍らず。なげき身の上にのみ。つもりぬる心地どもにて。おはしましゝ中に。僅に十日のうちに。主上上皇の。御国あらそひありて。上を下にかへし。天をひゞかし地をうごかすまで。乱れたゝかひ侍りて。夕に及て。大炊殿に火かゝりて。黒煙おほへりしに。御方は軍勝にのり。新院の御方の軍破て。上皇宇治の左府御馬に召て。いづちともなく落させ給しを。兵者追懸奉りていさゝかも恐奉らず。射まいらせ侍りしを見たてまつりしに。よしなき都に出てと返々心うく侍り。さて後にこそうけたまはりしが。新院はある山の中より求出し奉て。仁和寺へうつらせ給。宇治左府は。矢に当らせ給て。御命終らせ給ぬれば。奈良の京。般若野の五三昧に。土葬し奉りけるを。勅使たちて。死がひ実験の為に。堀おこし奉けると承はりしにあはれ六借世の中かな。誰か知ざるうき世はかゝるべしとは。ことにあやうくはかなき身をもちて。したりかほにのみ侍りて。むなしく明暮過て。無常の鬼にとらるゝ時。声をあげてさけべども叶ずして。悪趣にのみ経めぐり侍らんは。いとゞかなしかるべし。盛衰もなく。無常もはなれ侍らん世なりとも。仏の位目出度と聞たてまつらば。などかねがはざるべき。況や盛衰はなはだしきをや。無常すみやかなるをや。たゞ心をしづめて。往事を思給へ。すこしも夢にやかはり侍ず。悦も歎も。盛も衰も。みな偽のまへのかまへなるべし。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『大日本仏教全書 147』仏書刊行会 編

 

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山家集

新院讃岐におはしましけるに、便に付けて女房の許より
水茎の書き流すべき方ぞなき心のうちは汲みて知らなん(崇徳院)
かへし
ほど遠み通ふ心の行くばかり猶書き流せ水茎の跡(西行)
又女房つかはしける
いとどしく憂きにつけても頼むかな契りし道の案内違ふな(崇徳院)
かかりける涙に沈む身の憂さを君ならで又誰か浮べん(崇徳院)
かへし
頼むらん案内もいさや一つ世の別にだにも迷ふ心は(西行)
流れ出づる涙に今日は沈むとも浮かばん末を猶思はなむ(西行)

*   *   *

世の中に大事出で来て、新院あらぬ様にならせおはしまして、御髪おろして仁和寺の北院におはしましけるに、参りて源賢阿闍梨出で逢ひたり。月明くてよみける
かかる世に影もかはらず澄む月を見る我身さへ恨めしき哉(西行)

*   *   *

讃岐へおはしまして後、歌と云ふことの世にいと聞えざりければ、寂然が許へ言ひつかはしける
言の葉の情絶えにし折節にあり逢ふ身こそ悲しかりけれ(西行)
かへし
敷島や絶えぬる道になく〳〵も君とのみこそ跡を偲ばめ(寂然)

*   *   *

讃岐にて御心引きかへて、後の世の事御勤め隙なくせさせおはしますと聞きて、女房の許へ申しける。此文を書きて若人不嗔打 以何修忍辱
世の中をそむく便やなからまし憂き折節に君が逢はずば(西行)
これもついでに具して参らせける
浅ましやいかなる故の報にてかかる事しもある世なるらん(西行)
存命へて遂に住むべき都かは此世はよしやとてもかくても(西行)
幻の夢を現に見る人は目も合せでや世をあかすらんかくて(西行)
後人のまゐりけるに
其の日より落つる涙を形見にて思ひ忘るる時の間ぞなき(西行)
かへし
眼の前に変り果てにし世の憂きに涙を君も流しける哉(崇徳院)
松山の涙は海に深くなりて蓮の池に入れよとぞ思ふ(崇徳院)
波の立つ心の水をしづめつつ咲かん蓮を今は待つかな(崇徳院)

*   *   *

讃岐に詣でゝ、松山と申す所に、院おはしましけん古跡尋ねけれども、形もなかりければ
松山の波に流れて来し舟のやがて空しく成りにけるかな(西行)
松山の波の気色は変らじを形なく君はなりましにけり(西行)
白峯と申す所に御墓の侍りけるに参りて
よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせん(西行)

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『山家集』短歌雑誌社編輯部 校訂 P.85, 92-93, 98

 

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長秋詠藻 下

崇徳院讃州にしてかくれさせ給ひて後御供なりける人の辺より伝へられて斯ることなむありしとて折紙に御宸筆なりける物を伝へ贈られしなり

古への 須磨の浦には 藻塩たれ 蜑のなはたき
漁りせし その言の葉は 聞しかど 身の類ひには
鳴き渡る 岩うつなみの 懸てだに おもはぬ外の
名を止て 沈み果てぬる われ舟の 我にもあらず
年つきも 空しくすぎの 板ぶきの ならはぬことに
目も合で 思ひしとけば 前の世に つくれる罪の
種ならで かゝる歎きに なることは あらしの風の
激しさに 乱れしのべの 糸ずゝき 葉末にかゝる
露の身の 置きとめ難く 見えしかば そのくれ竹の
よを籠て 思ひ立ちにし 麻ごろも 袖もわが身も
朽ぬれど 流石にむかし 忘れねば くもゐの月を
もて遊び やまぢの菊を 誰かまた 時につけつゝ
円ゐして 春あきおほく 過にしを 今は千とせを
隔て来て 初かりがねも 言づてず 馴れにし方は
音も絶ぬ 本のこゝろし 変らずは ことにつけつゝ
君はなほ 言葉のいづみ 湧らめど 見しは斯だに
汲て知る 人もまれにや 成ぬらむ 更にもいはず
悲しきは ことをたちにし から国の むかしの跡に
習ひてや 深きうきめに ねも絶ぬ かつ身の程を
厭へども こゝろの水し 浅ければ 胸のはちす葉
いつしかと ひらけむことは 難けれど たどる〳〵も
暗きよを いづべき道と 入ぬれば 一たびなども
いふ人を 捨ぬひかりに 誘はれて 玉をつらぬる
木の下に 花ふりしかむ 時にあはゞ ちぎり同じき
身と成て むなしき色は 染置きし 言の葉ごとも
ひる返し まことの法と なさむ迄 あひ語らはむ
ことをのみ 思ふこゝろを 知るや知らずや
夢のうちになれこし契朽もせでさめむ旦に逢こともがな(崇徳院)

宮におはしませし時かやうの道にもつかうまつりし人は多かりしをとりわきおぼしめし出しけむこともいと悲しくて人知れず御返事をかきておたぎのへんになむ遣らせける

須磨浦や 藻塩たれけむ 人もなほ 今を見るには
うき波の うき例しには なほ浅し 哀れうき身の
其かみを 思ふにつけて 悲しきは 荒れにし宿の
壁に生る みなしご草と 成しより ふるすに残る
葦たづの 沢べにのみぞ 年経しを はじめて君が
御代に社 雲のかけはし 踏み通ひ たつのみ顔に
近づきて 時につけつゝ 空しくは 過ぐさず見にし
あづさ弓 まどひし末に 連なりて 花のはるより
時鳥 待つ暁も 秋の夜の 月を見るにも
九重に ふり積む雪の あした迄 物思ふことも
慰さめし 九の重を 出しだに 袖のこほりは
いかに有し 天の羽ごろも 脱替へて はこやの山に
移りしも やまぢの菊を 手折つゝ 過るよはひも
忘れしを いかに吹にし はつ秋の あらし也けむ
山しろの 鳥羽田の面に 日影くれ もりのまつ風
悲しみて ゆふべの空と なりし時 人のこゝろも
推なべて 野べのかや原 乱れつゝ 迷ひしほどは
むば玉の 夢うつゝとも わかざりき 更にもいはず
わたの原 むなしき船を 漕ぎ離れ 波路はるかに
隔てつと 聞きし別れの 悲しきは たとへむ方も
無に似て 蜑のかるてふ もしほ草 搔てもやらむ
方もなく むなしき空に 仰げども こゝろ計りは
まつ山の 嶺のくもにも まつしけむ 唯かたみとは
留め置し 大和みことの 言の葉を 見れば涙も
もろ共に 玉のこゑ〴〵 連なりて 錦いろ〳〵
たち混り かゝる類ひは 古ヘも 今行くすゑも
如何あらむ さても年つき 移りゆく しきしまの道
立ち返り くもゐの月に 誘はるゝ 夜な〳〵稀に
有しかど 月のまへには 昔おぼえ 花のもとにも
君を思ふ 只とことはに 嘆きつゝ いつも変らぬ
埋れ木の しづめることは ことのねを 昔したちけむ
をによせむ 立てゝし道と 遁れつゝ こゝろ一つの
空しさは あゆむ草には 袖ぬれて ことばの露は
自づから 溜るゝせより 時もあれと 浅茅がしたに
かつ消て 哀れしるべき 人もなし さりとも稀に
立ち返る 波もやあると 思ひしを つひに千里の
外にして 秋のみそらに 月かくれ 旅のみゆかに
露けぬと 汐路へだてゝ 吹く風の 原にもこえし
夕べより 今ははかなき 夢の中に あひ見むことは
泣々も 後の世にだに 契あらで はちすの池に
生れあはゞ むかしも今も この道に 心をひかむ
もろ人は この言の葉を えむとして おなじみ国に
さそはざらめや   
さきたゝむ人は互に尋見よ蓮の上にさとりひらけむ(俊成)

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『続国歌大観 歌集 増補改版』木村正辞、井上頼囶 監修 松下大三郎 編

 

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今鏡 第二 すべらぎの中 八重の汐路

旧の女院二所も、方々に軽からぬ様に御座しますに、今の女院時めかせ給ひて、近衛の帝生み奉らせ給へる、東宮に立て奉りて、位譲り奉らせ給ふ。其の日辰の時より、上達部、様々の官々参り集るに、内より院に度々御使蔵人の中務少輔とか云ふ人、代る〴〵参り、又六位の蔵人、御文捧げつゝ参る程に、日暮方にぞ神璽宝剣など、東宮の御所昭陽舎へ、上達部引き続きて渡り給ひける。帝の御養ひ子、例無き事とて、皇太弟とぞ宣命には載せられ侍りける。其の御定に、今日延ぶべしなど内より申させ給ひけれど、事始まりて如何でかとてなん其の日侍りけるとぞ、聞え侍りし。今の内には、職事殿上人など仰せ下され、有るべき事どもありて、新院は九日ぞ三条西の洞院へ渡らせ給ふ。太上天皇の御尊号奉らせ給ふ。斯くて年経させ給ふ程に、近衛の帝崩れさせ給ひぬれば、今の一院の、今宮とて御座します、位に即かせ給ひにき。去程に、鳥羽の院御心地重らせ給ひて、七月二日亡せさせ給ひぬれば、帝の御代にて定りぬるを、院の御座しましゝ折より、聞ゆる事ども有りて、御垣の内、厳しく固められけるに、嵯峨の帝の御時、兄の院と争はせ給ひける様なる事出来て、新院御髪卸させ給ひて、御弟の仁和寺の宮に御座しましければ、暫しは然様に聞えし程に、八重の汐路を分けて、遠く御座しまして、上達部殿上人の、一人参るも無く、一宮の御母の兵衛佐と聞え給ひし、然らぬ女房一人二人許にて、男も無き御旅住も、如何に心細く朝夕に思召しけん、親しく召使ひし人共、皆な浦々に都を別れて、自づから留れるも、世の怖ろしさに、倐忽にも、参る事だにも無かるべし。皇嘉門院よりも、仁和寺の宮よりも、忍びたる御訪などばかりや有りけん、譬ふる方無き御住居なり。浅間しき鄙の辺りに、九年許御座しまして、憂き世の余りにや、御病も年に添へて重らせ給ひければ、都へ帰らせたまふ事無くて、秋八月二十六日に、彼の国にて、亡せさせ給ひにけりとなむ、白峯の聖と云ひて、彼の国へ流されたる阿闍梨とて、昔有りけるが、此の院に生まれさせたまへるとぞ、人の夢に見えたりける。其の墓の側らに、吉き方に当りたりければとてぞ御座しますなる。八重の汐路を搔き分けて、遥々と御座しましけん、いと悲しく心地好きだに、あはれなるべき道を人も無くて、如何ばかりの御心地せさせたまひけん。此の帝の御母后、十九と申しゝ御年此の帝を生み奉らせ給ひて、御子位に即かせ給ひて後、二十三の御年后の位を去らせ給ひて、待賢門院と申す。同じ国母と申せど、白河院の御女とて養ひ申させ給ひければ、並なく栄えさせ給ひき。況して院号始などは、如何ばかりか、持成し聞え給ひし。多くの御子産み奉らせ給ひ、今の一の院の御母に御座しませば、最とやんごとなく御座します。仁和寺の御堂造らせ給ひ、黄金の一切経など書かせ給ひて、康治二年御髪卸させ給ふ。御名は真如院と附かせ給ふとぞ。久安元年八月二十二日、薨れさせ給ひにき。又の年の正月に、彼の院の女房の中より、高倉の内の大臣の許へ、
   皆人は今日の御幸と急ぎつゝ消えにし跡は訪ふ人も無し
顕仲の伯の女、堀河の君の歌とぞ聞え侍りし。此の女院の御母は、但馬守隆方の弁の女なり。従二位充子とて、並なく、世に遭ひ給へりし人に御座すめり。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『新釈日本文学叢書 第八巻 今鏡・増鏡』物集高量 校註

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