〔評〕 ここでは、動十分心といつた
心の方面のはたらきに就て説いて居る。
心は、ここでは、演伎に関して気を働かせる方面を示して居り、その一例として、身動と足踏との見聞が同心ならぬやうにすべしといふ公案を出したのである。
身を強く動かす時に、足踏を音高く踏むといふのは自然であるし、それによつて強さの感じが一層に高められることは、我々の観能に際して、よく経験する所である。そして、往昔の猿楽も、一般には、かやうにしてゐたものであつたらしい。申楽談儀の中に、「鬼の能、殊更、当流に変れり。ひやうしも同じものを、余所にははらりと踏むを、ほろりと踏み、余所には、どうと踏むを、とうと踏む。砕動風鬼これなり」といふ条があつて、観世流の足踏に比べて、他流の鬼は強く踏んで居た消息が見える。鬼のはたらきは強いもので、身を強く動かすのであるが、それを、ほろりと踏みとうと踏むといふのは、この段の公案に従つたものである。何故にかやうにするかといへば、一つは、他の流儀と違へて踏めば、その見物人の予期に違つて珍らしく面白く感ずる効果を上げ、第二は、鬼ながらも、力動風鬼の荒々しさに堕せず、幽玄味のある砕動風鬼の面白さを出さんが為と思はれる。かやうに、両体和合せしめ、見聞同心ならぬやうの工夫をこらすことが、動十分心の心のはたらきなのである。
又、この稽古を、舞で学ばずに、他の物まね働きで学べといつてゐるのは、結局これが、砕動風の曲に対する一公案であることを示したものであらう。舞の足踏は、砕動の足踏とは、全然その趣を異にする故である。