1. 浅深之事
  1. 幽玄之入堺事
    第一段
    第二段
    第三段
  2. 劫之入用心之事
  3. 万能綰一心の事
  4. 妙所之事
  5. 批判之事
    第一段 見よりいでくる能
    第二段 聞よりいでくる能
    第三段 心よりいでくる能
  6. 音曲の事
  7. 奥段
    第一段
    第二段
    第三段 是非初心を忘るべからず
    第四段 時々の初心を忘るべからず
    第五段 老後の初心を忘るべからず
  8. 奥書

 

 

 

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強身動宥足踏 強足踏宥身動

是も大かた、先の心十分の心也。身と足と、同じ様に動けば、荒々見ゆるなり。身を使ふ時、足を偸めば、狂うとは見ゆれども、荒からず。足を強く踏む時、身を静かに動かせば、足音は高けれども、身の静かになるに因りて、荒くは見へぬ也。これ即ち、見聞同心ならぬ所、両体和合に成て、面白き感あり。惣じて足を踏み習ふ事、舞にては踏み習ふべからず。余の働き物真似にて踏み習ふべし。

 

〔口訳〕 強身動宥足踏・強足踏宥身動といふのも、大体に於て、前に述べた「動十分心」の心である。身体と足とが、同じやうに動く時には、その伎は荒く見えるものである。身体をつかふ際に、足踏をぬすんで宥く踏むやうにすると、狂ひ働くやうには見えるが、その芸は荒く感じない。又、足踏を強くふむ時に、身体を静かに動かすやうにすると、足音は高いけれど、身体の動きが静かであるために、荒くは見えないのである。これ、即ち、眼の見る所と耳に聞く所とが同一の感じを起さない所が、両体和合となつて、面白い感を生ずるのである。惣じて、足踏を踏み習ふには、舞に於ては踏み習つてはいけない。舞以外の他の働きや物真似の際に、踏み習ふやうにせよ。

 

〔評〕 ここでは、動十分心といつたの方面のはたらきに就て説いて居る。は、ここでは、演伎に関して気を働かせる方面を示して居り、その一例として、身動と足踏との見聞が同心ならぬやうにすべしといふ公案を出したのである。

 身を強く動かす時に、足踏を音高く踏むといふのは自然であるし、それによつて強さの感じが一層に高められることは、我々の観能に際して、よく経験する所である。そして、往昔の猿楽も、一般には、かやうにしてゐたものであつたらしい。申楽談儀の中に、「鬼の能、殊更、当流に変れり。ひやうしも同じものを、余所にはと踏むを、と踏み、余所には、と踏むを、と踏む。砕動風鬼これなり」といふ条があつて、観世流の足踏に比べて、他流の鬼は強く踏んで居た消息が見える。鬼のはたらきは強いもので、身を強く動かすのであるが、それを、と踏みと踏むといふのは、この段の公案に従つたものである。何故にかやうにするかといへば、一つは、他の流儀と違へて踏めば、その見物人の予期に違つて珍らしく面白く感ずる効果を上げ、第二は、鬼ながらも、力動風鬼の荒々しさに堕せず、幽玄味のある砕動風鬼の面白さを出さんが為と思はれる。かやうに、両体和合せしめ、見聞同心ならぬやうの工夫をこらすことが、動十分心の心のはたらきなのである。

 又、この稽古を、舞で学ばずに、他の物まね働きで学べといつてゐるのは、結局これが、砕動風の曲に対する一公案であることを示したものであらう。舞の足踏は、砕動の足踏とは、全然その趣を異にする故である。

 

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