枕慈童 一名 菊慈童
ワキ 官人 シテ 慈童 地は 唐土 季は 九月 ワキ次第「山より山の奥までも。〳〵。道あるや時代なるらん。 詞「是は魏の文帝に仕へ奉る臣下なり。さても我君の宣旨には。酈県山の麓より薬の水涌き出でたり。其水上を見て参れとの宣旨を蒙り。唯今山路に赴き候。急ぎ候ふ程に。是は早酈県山に着きて候。是に菴の見えて候。まづ此あたりに徘徊し。事の子細をうかゞはばやと存じ候。 シテサシ「それ邯鄲の枕の夢。楽しむ事百年。慈童が枕は古への。思ひ寐なれば目もあはず。 地「夢もなし。いつ楽しみを松が根の。〳〵。嵐の床に仮寐して。枕の夢は夜もすがら。身を知る袖は乾されず。頼めにし。かひこそなけれ独寐の。枕言葉ぞ恨みなる。〳〵。 ワキ詞「不思議やな此山中は。虎狼野干のすみかなるに。是なる菴の内よりも。顕はれ出づる姿を見れば。其様化したる人間なり。如何なる者ぞ名をなのれ。 シテ詞「人倫通はぬ所ならば。其方をこそ化生の者とは申すべけれ。是は周の穆王に召し仕はれし。慈童がなれる果ぞとよ。 ワキ「是は不思議の言事かな。誠しからず周の代は。既に数代のそのかみにて。王位も其数移り来ぬ。 シテ「不思議や我は其のまゝにて。昨日や今日と思ひしに。次第に変はる其昔とは。さて穆王の位は如何に。 ワキ「今魏の文帝前後の間。七百年に及びたり。非想非々想は知らず。人間に於て今まで生ける者あらじ。いかさま化生の者やらんと。身の怪しめをぞ為しにける。 シテ「いや猶も其方こそ化生の者とは申すべけれ。忝なくも帝の御枕に。二句の偈を書き添へ賜はりたり。立ち寄り枕を御覧ぜよ。 ワキ「是は不思議の事なりと。各立ち寄り読みて見れば。 シテ「枕の要文疑ひなく。 二人「具一切功徳慈眼視衆生。福寿海無量是故応頂礼。 地「此妙文を菊の葉に。置く滴りや露の身の。不老不死の薬となつて。七百歳を送りぬる。汲む人も汲まざるも。延ぶるや千年なるらん。おもしろの遊舞やな。(楽) シテ「有難の妙文やな。 地「すなはち此文菊の葉に。〳〵。悉く顕はるさればにや。雫も芳しく滴りも匂ひ。淵ともなるや谷陰の水の。所は酈県の。山のしたゞり菊水の流れ。泉はもとより酒なれば。酌みては勧めすくひては施し。我身も飲むなり飲むなりや。月は宵の間其身も酔ひに。引かれてよろ〳〵〳〵〳〵と。たゞよひ寄りて。枕を取り上げ戴き奉り。実にも有難き君の聖徳と。岩根の菊を。手折り伏せ手折り伏せ。敷妙の袖枕。花を莚に臥したりけり。 シテ「もとより薬の酒なれば。 地「もとより薬の酒なれば。酔ひにも侵されず其身も変はらぬ。七百歳を保ちぬるも。此御枕の故なれば。如何にも久しき千秋の帝。万歳の我君と。祈る慈童が七百歳を。我君に授け置き。所は酈県の山路の菊水。汲めやむすべや飲むとも飲むとも。尽きせじや尽きせじと。菊かき分けて山路の仙家に。そのまゝ慈童は入りにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第五輯』大和田建樹 著
太平記 巻第十三 龍馬進奏の事
(前略)ある時主上馬場殿に幸成りて、また此の馬を叡覧ありけるに、諸卿皆左右に候ず。時に主上洞院の相国に向つて仰せられけるは、「古、屈産の乗、項羽が騅、一日に千里を翔る馬ありと雖も、我が朝に天馬の来る事を未だ聞かず。然るに朕が代に当つて此の馬求めざるに出で来る。吉凶如何。」と御尋ねありけるに、相国申されけるは、「これ聖明の徳に因らずんば、天豈此の嘉瑞を降し候はんや。虞舜の代には鳳凰来り、孔子の時は麒麟出づといへり。就中天馬の聖代に来る事第一の嘉祥なり。其の故は昔周の穆王の時、驥、たう、驪、驊、騮、騄、駬、駟とて八匹の天馬来れり。穆王之れに乗つて、四荒八極至らずといふ所なかりけり。ある時西天十万里の山川を一時に越えて、中天竺の舎衛国に到り給ふ。時に釈尊霊鷲山にして法華を説き給ふ。穆王馬より下りて会座に臨んで、即ち仏を礼し奉つて、退いて一面に坐し給へり。如来問うて宣く、『汝はいづれの国の人ぞ。』穆王答へて曰く、『吾はこれ震旦国の王なり。』仏重ねて宣く、『善哉今此の会場に来れり。我治国の法有り、汝受持を欲せんや否や。』穆王曰く、『願くは信受奉行して理民安国の功徳を施さん。』爾時、仏漢語を以て、四要品の中の八句の偈を穆王に授け給ふ。今の法華の中の経律の法門有りといふ深秘の文これなり。穆王震旦に帰つて後深く心底に秘して世に伝へられず。此の時慈童といひける童子を、穆王寵愛し給ふに依つて、恒に帝の傍に侍りけり。ある時彼の慈童君の空位を過ぎけるが、誤つて帝の御枕の上をぞ越えける。群臣議して曰く、『其の例を考ふるに罪科浅きにあらず。然りと雖も事誤りより出でたれば、死罪一等を宥めて遠流に処せらるべし。』とぞ奏しける。群議止む事を得ずして、慈童を酈県と云ふ深山へぞ流されける。彼の酈県といふ所は帝城を去る事三百里山深うして鳥だにも鳴かず、雲暝うして虎狼充満せり。されば仮にも此の山へ入る人の、生きて帰ると云ふ事なし。穆王猶慈童を哀れみ思召しければ、彼の八句の内を分たれて、普門品にある二句の偈を、潜に慈童に授けさせ給ひて、『毎朝に十方を一礼して、此の文を唱ふべし。』と仰せられけり。慈童遂に酈県に流され、深山幽谷の底に棄てられけり。爰に慈童君の恩命に任せて、毎朝に一反此の文を唱へけるが、若し忘れもやせんずらんと思ひければ、側なる菊の下葉に此の文を書附けけり。それより此の菊の葉における下露、僅かに落ちて流るゝ谷の水に滴りけるが、其の水皆天の霊薬となる。慈童渇に臨んでこれを飲むに、水の味ひ天の甘露の如くにして、恰も百味の珍に勝れり。加之天人花を捧げて来り、鬼神手を束ねて奉仕しける間、敢て虎狼悪獣の恐れなくして、却つて換骨羽化の仙人となる。これのみならず、此の谷の流れの末を汲んで飲みける民三百余家、皆病即消滅して不老不死の上寿を保てり。其の後時代推移つて、八百余年まで慈童猶少年の貌あつて、更に衰老の姿なし。魏の文帝のとき、彭祖と名を替へて、此の術を文帝に授け奉る。文帝之れを受けて菊花の杯を伝へて、万年の寿をなさる。今の重陽の宴これなり。それより後、皇太子位を天に受けさせ給ふ時、必ず先づ此の文を受持し給ふ。これに依つて普門品を当途王経とは申すなるべし。此の文我が朝に伝はり、代々の聖主御即位の日必ずこれを受持したまふ。若し幼主の君践祚ある時は、摂政先づこれを受けて、御治世の始めに必ず君に授け奉る。此の八句の偈の文、三国伝来して、理世安民の治略、除災与楽の要術となる。これ偏に穆王天馬の徳なり。されば此の龍馬の来れる事、併しながら仏法王法の繁昌宝祚長久の奇瑞に候べし。」と申されたりければ、主上を始め参らせて、当座の諸卿悉く心に服し旨を承つて、賀し申さぬ人はなかりけり。(後略) 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『校註日本文学大系 第十七巻』国民図書