観世流では、「菊慈童」「枕慈童」が独立して両方存在します。

 

「菊慈童」「枕慈童」は、併載している「太平記 巻第十三 龍馬進奏の事」の、名馬を手に入れたことの吉凶をめぐって述べられる穆王八駿の説話から作られました。
説話の眼目は、穆王が釈迦から直に授けられ、秘匿していたらしい四要品中の八句の偈にほかなりません。
慈童はその偈を帝室から持ち出し、利益を証した人物でした。
慈童は漢籍に見当たらない人物で、初出の和書は『真俗雑記問答鈔』となっています。

 

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観世流 枕慈童

シテ 慈童
ワキ 魏文帝臣下

九月

次第ワキ「山より山の奥迄も。〳〵。道ある時代成けり。
ワキ詞「抑是は漢の皇帝の臣下也。扨も此程南陽の酈県の山より。薬の水流れ出づ。其水上を見て参れとの宣旨を被り。唯今山路に赴き候。
道行「心なき。山賤迄もたふとみて。〳〵。迎へ靡くや草恙さへもなくして速かに。分けつゝ行けば程もなく。尋ぬる山に着にけり〳〵。
詞「是ははや酈県の山に着て候。此谷川は薬の水にて候べし。岸に添ひて水上を尋ねばやと存候。
シテサシ「山迤邐として霜侵せる紅樹。水縈回として露潤す黄菊。あら面白の折からやな。
ワキ「ふしぎやな是なる庵の内を見れば。いと美しき童子あり。抑御身はいかなる人ぞ。
シテ「我は周の代に慈童といつし者なり。扨又御身は何の為。此深山には分け入り給ふぞ。
ワキ「是は漢の皇帝の臣下なるが。薬の水の水上を尋ねよとの。宣旨を被り来りたり。先々彼周の代は。八百年の昔なるに。しかも妙なる童子の姿。こは抑いかなる事やらん。
シテ「我古へあやまつて。御枕を越へしにより爰に移さる。然れども我君猶浅からぬ御恵み。御枕に妙文を記しまして給りぬ。されば我此水を以て。菊の葉に彼妙文を写し。流れに浮かむれば即ち薬の水となつて。寿命を延ぶるのみならず。神通を得て楽みの身に暮せるなり。
詞「先々これなる御枕。拝み給へや人々よ。
ワキ「是はふしぎの事なりと。おの〳〵立ち寄り御枕の。妙文を拝し奉る。
シテ「いで〳〵舞楽を奏しつゝ。此まれ人を慰めんと。
同「西に向ひてうち招けば。〳〵。崑崙山に住居なす。王母にかしづく仙女の数々楽器をてんでに携へて。雲に乗じて忽ち来り。聞きもなれざる仙楽を。奏せば。慈童は立ち出て。舞をかなづる姿も。たをやかに面白や。(楽)
地「本来薬の水なれば。〳〵。其身も変らず八百歳を。既に経たりや猶ことぶきは。限りあらじな〳〵此御薬を。奉らんと。玉の甕を取り出て。薬の水をみづから汲み入れ勅使に是を捧げつつ。所は酈県の山路の菊の水。汲めやむすべや飲むとも尽きじ。汲めやむすべや飲むとも尽きせぬ。齢を延ぶる。めでたさよ。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『観世流謡曲錦囊 巻之四』観世流謡曲同志研究会 編

 

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太平記 巻第十三 龍馬進奏の事

(前略)ある時主上馬場殿に幸成りて、また此の馬を叡覧ありけるに、諸卿皆左右に候ず。時に主上洞院の相国に向つて仰せられけるは、「古、屈産の乗、項羽が騅、一日に千里を翔る馬ありと雖も、我が朝に天馬の来る事を未だ聞かず。然るに朕が代に当つて此の馬求めざるに出で来る。吉凶如何。」と御尋ねありけるに、相国申されけるは、「これ聖明の徳に因らずんば、天豈此の嘉瑞を降し候はんや。虞舜の代には鳳凰来り、孔子の時は麒麟出づといへり。就中天馬の聖代に来る事第一の嘉祥なり。其の故は昔周の穆王の時、驥、たう、驪、驊、騮、騄、駬、駟とて八匹の天馬来れり。穆王之れに乗つて、四荒八極至らずといふ所なかりけり。ある時西天十万里の山川を一時に越えて、中天竺の舎衛国に到り給ふ。時に釈尊霊鷲山にして法華を説き給ふ。穆王馬より下りて会座に臨んで、即ち仏を礼し奉つて、退いて一面に坐し給へり。如来問うて宣く、『汝はいづれの国の人ぞ。』穆王答へて曰く、『吾はこれ震旦国の王なり。』仏重ねて宣く、『善哉今此の会場に来れり。我治国の法有り、汝受持を欲せんや否や。』穆王曰く、『願くは信受奉行して理民安国の功徳を施さん。』爾時、仏漢語を以て、四要品の中の八句の偈を穆王に授け給ふ。今の法華の中の経律の法門有りといふ深秘の文これなり。穆王震旦に帰つて後深く心底に秘して世に伝へられず。此の時慈童といひける童子を、穆王寵愛し給ふに依つて、恒に帝の傍に侍りけり。ある時彼の慈童君の空位を過ぎけるが、誤つて帝の御枕の上をぞ越えける。群臣議して曰く、『其の例を考ふるに罪科浅きにあらず。然りと雖も事誤りより出でたれば、死罪一等を宥めて遠流に処せらるべし。』とぞ奏しける。群議止む事を得ずして、慈童を酈県と云ふ深山へぞ流されける。彼の酈県といふ所は帝城を去る事三百里山深うして鳥だにも鳴かず、雲暝うして虎狼充満せり。されば仮にも此の山へ入る人の、生きて帰ると云ふ事なし。穆王猶慈童を哀れみ思召しければ、彼の八句の内を分たれて、普門品にある二句の偈を、潜に慈童に授けさせ給ひて、『毎朝に十方を一礼して、此の文を唱ふべし。』と仰せられけり。慈童遂に酈県に流され、深山幽谷の底に棄てられけり。爰に慈童君の恩命に任せて、毎朝に一反此の文を唱へけるが、若し忘れもやせんずらんと思ひければ、側なる菊の下葉に此の文を書附けけり。それより此の菊の葉における下露、僅かに落ちて流るゝ谷の水に滴りけるが、其の水皆天の霊薬となる。慈童渇に臨んでこれを飲むに、水の味ひ天の甘露の如くにして、恰も百味の珍に勝れり。加之天人花を捧げて来り、鬼神手を束ねて奉仕しける間、敢て虎狼悪獣の恐れなくして、却つて換骨羽化の仙人となる。これのみならず、此の谷の流れの末を汲んで飲みける民三百余家、皆病即消滅して不老不死の上寿を保てり。其の後時代推移つて、八百余年まで慈童猶少年の貌あつて、更に衰老の姿なし。魏の文帝のとき、彭祖と名を替へて、此の術を文帝に授け奉る。文帝之れを受けて菊花の杯を伝へて、万年の寿をなさる。今の重陽の宴これなり。それより後、皇太子位を天に受けさせ給ふ時、必ず先づ此の文を受持し給ふ。これに依つて普門品を当途王経とは申すなるべし。此の文我が朝に伝はり、代々の聖主御即位の日必ずこれを受持したまふ。若し幼主の君践祚ある時は、摂政先づこれを受けて、御治世の始めに必ず君に授け奉る。此の八句の偈の文、三国伝来して、理世安民の治略、除災与楽の要術となる。これ偏に穆王天馬の徳なり。されば此の龍馬の来れる事、併しながら仏法王法の繁昌宝祚長久の奇瑞に候べし。」と申されたりければ、主上を始め参らせて、当座の諸卿悉く心に服し旨を承つて、賀し申さぬ人はなかりけり。(後略)

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『校註日本文学大系 第十七巻』国民図書

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