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海路

只うた〽 かくて、順風時至りしかば、纜を解き、船に乗り移り、海上に浮かふイ。さるにても、佐渡の島迄は、如何程の海路やらんと、尋ねしに、水主答ふる様、遥々の船路なりと申し程に、
下〽 遠くとも、君の御蔭に、漏れてめや、八島の外も、同じ海山。
上〽 今ぞ知る、聞くだに遠き、佐渡の海に、老の浪路の、船の行末。万里の波濤に赴くも、
下くり〽 唯一帆の道とかや。一葉の内には、千顆万徳の通所あり。
こせさは〽 実にや世の中は、何に喩ゑん、朝ぼらけ、漕ぎ行船の路も既、幾瀬の浪を越えぬらん。北海漫々として、雲中に一島無し。東を遥に見渡せば、五月雨の空ながら、その一方は、夏も無き、雪の白山ほの見えて、雪ま雲間?や遠く残らん。猶行末も、旅衣、能登の名に負ふ、国つ神、鈴の岬や、七島の、海岸遥かに移ろひて、入日を洗ふ沖つ浪、その儘暮れて、夕闇の、蛍とも見る、漁り火や、(寄る)の浦をも、知らすらん。
上〽 靉く雲の立て山や、明け行天の礪波山、倶利迦羅峰までも、それぞとばかり三越し路の、船遥々と漕ぎ渡る、末有り明の浦の名も、月を其方の知るべにて、浪の夜昼行船の、去ること速き、年の矢の、下の弓張りの月も既、曙の波に松見えて、早くぞ、爰に岸影の、爰はと問ば、佐渡の海、大田の浦に着にけり、〳〵。

 

〔口訳〕かくして居る中に、風も順風になつて来たので、纜を解いて船に乗り移り、海上に浮び出でた。それにしても、佐渡の島までは、どれほどの海上の里程であるのだらうと尋ねたところ、船頭が答へるには、遥々の船路だと申したので、
遠くとも君の御かげに洩れてめや八しまの外も同じうみ山
(たとひ遠い所でも、大君の御蔭に洩れるといふことは有るまい。八島の外といつても、同じ海山であるのだ)
今ぞ知る聞くだに遠き佐渡の海に老の波路のふねの行すゑ
(名を聞いてさへも遠い所だと思つて居た佐渡、その佐渡への海路が、自分の老の年波を渡る舟の行く末であつたと、今こそしみじみと思ひ知られる事である)
万里の波濤に赴くのも、ただ一帆の道であるとかいふことだし、一葉の舟には、千顆万徳の通所があるともいふ。昔人が「世の中は何にたとへん朝ぼらけ漕ぎ行く舟の跡の白波」と詠じたのも、如何にもと思はれ、かうした船の旅も、既にどれほどの浪路を越したことであらう。北海は漫々として雲をひたし、見渡す限り一島の影もない。東を遥かに見渡すと、今は五月雨の空であるが、その処だけは夏もない白雪を頂いた白山がほのかに見えて、雪間はるかに残ることであらう。なほも進み行く彼方には、能登の名を持つた国つ神の、鈴に縁のある珠洲の岬や、七島の海岸が、遥かに視界を過ぎて行き、入日を洗つて居た沖の波も、そのままに黄昏れて、夕闇にもなれば、蛍のやうにも見える漁火が、夜の浦を知らすかのやうである。さて、朝雲たなびく立山や、明け行く空にあらはれる礪波山、倶利迦羅の峰までも、それぞとばかりに遥かに見やり、越の海路をはるばると漕ぎ渡る末にあるといふ有明の浦をも、月のかかる其方にあるのだらうと思ひやりながら、夜となく昼となく漕ぐ舟の進みも早く、月日も早く過ぎ去つて、其月の下旬の頃にはもはや、曙の波間から松が見え初め、早くもたどり着いた岸蔭で、此処は何処かと問うて見れば、佐渡の海の太田の浦に着いたのであつた。

 

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