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配処

只こと葉〽 その夜は、大田の浦に留まり、蜑の庵の、磯枕して、明くれば、山路を分け登りて、笠借りと云峠に着きて、駒を休めたり。此処は、都にても聞きし名所なれば、山は如何でか紅葉しぬらんと、夏山楓の病葉迄も、心有る様に思ひ染めてき。その儘山路を降り下れば、長谷と申て、観音の霊地わたらせ給。故郷にても、聞きし名仏にて渡らせ給へば、懇ろに礼拝して、その夜は雑太の郡、新保と云所に着きぬ。国の守の代官、受け取りて、満福寺と申小院に宿せさせたり。この寺の有り様、後ろには、寒松群立て、来ぬ秋誘ふ山風の、庭の梢に訪れて、陰は涼しき、遣り水の、苔を伝いて、岩垣の、露も雫も、滑らかにて、実に、星霜経りける有り様也。御本尊は、薬師の霊仏にて渡らせ給由、主の御僧の仰せられし程に、いとゞ有り難き心地して、
下歌〽 かし妙香の春の花、十悪の里迄も匂ひを為し、しゆひやう真如の秋の月、五濁の水に宿るなる、誓ひの陰もあらたにて、庭の遣り水の、月にも澄むは心也。暫し身を、奥築き処、此処ながら、〳〵、月は都の雲居ぞと、思ひ慰む斗こそ、老の寝覚めの頼りなれ。げにや、罪無くて、配所の月を見る事は、古人の望みなるものを、身にも心の有るやらん、〳〵。

 

〔口訳〕その夜は大田の浦にとまり、海士の庵に磯枕の一夜をあかし、明くれば山路を分け登つて、笠借といふ峠に着いて、駒を休ませた。此の処は、都に於ても聞いて居た名所であるので、夏山楓の病葉の黄色を見るにつけても、古歌に「雨ふれど露も漏らじを笠取の山はいかでか紅葉そめけむ」とよまれた事を思つて、その楓を心あるもののやうにも思つた事であつた。そして山路をおり下ると、長谷と申して、観世音をお祀り申した霊場がある。故郷の大和でも聞いてゐた名仏であられるので、懇ろに礼拝申して、其の夜は、雑太の郡新保といふ所に到着した。国守の代官が自分の身柄を受取つて、満福寺といふ小さい寺に宿らせた。この寺の有様を見ると、後方には寒松が簇立ち、来ぬ秋を誘ふ山風は庭の梢に訪れ、木蔭には涼しい遣り水が苔を伝つて流れ、岩垣は露や雫になめらかにうるほひ、誠に長い星霜を経た有様である。御本尊は薬師の霊仏であられる由を、主の御僧が仰せられたので、誠に有難い心地がして、かし妙香の春の花は十悪の里までも芳しく、しゆひやう真如の秋の月は五濁の水に宿るといふ、御誓願の御蔭もまことにあらたかで、庭の遣水にうつる月をながめるにつけても、先づ澄むものは心である。暫時の身を置く所、そして我が墓所もやがて此処となるであらうが、照る月ばかりは、雲居の都を照らす月に変らぬものだと、それをせめてもの慰みとしてゐるだけが、老の寝覚のたよりである。まことに思つて見れば、罪無くて配処の月を眺めるといふことは、古人が望んだことであるのだから、かやうな境涯になることは、自分にもさうした心があるのであらうか。

 

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