💡 古典を読む 世阿弥が興福寺の薪能を伝える『花伝書』風姿花伝第四、神儀云「当代に於て」はこちら

 

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(薪神事)

夫、治まれる代の声は、安んじて以て、楽しめり。是誠に、其の政事和らげば也。天地を動かし、鬼を感ぜしむ。二月の、初申なれや、春日山、峰響む迄、頂奉る、と詠ぜしは、実にも、故ある道とかや。又二月や、雪間をわ?けし、春日野の、置く霜月も、神祭の、今に絶せぬは、国安楽の神慮也。然れば、小忌衣、二月第二の日、この宮寺に参勤し、翁?の歌を謡ふも、嘸御納受は有るらん。
上〽 然れば、興福寺の、西金東金の両堂の法事にも、先、遊楽の舞歌を整へ、万歳を祈り奉り、国富、民も豊なる、春を迎へて、年を積む、薪の神事、是なりや。されば、北野の天神も、名は、大唐に留まり、会は興福に納まるとの御願文も、あらたにて、十二大会の初めにも、この遊楽を為す事の、当代の今に至る迄、目前、あらたなる、神道の末ぞ久しき。

これを見ん、残す金の、島千鳥、跡も朽せぬ、世々しるしに

永享八年二月日沙弥 善芳

 

〔口訳〕一体に、世の中がよく治まつて居る聖代の歌謡は、民心が安らかで且つ楽しんでゐる心があらはれるものである。これ実に、其の政事が穏和に行はれて居ることに依るのである。従つて歌は、天地を動かし鬼神を感ぜしめるものだと言はれるのである。「きさらぎのはつさるなれや春日山、峰とよむまでいただきまつる」と詠じた歌は、まことに由緒深い神祭りの道を詠じた歌であるとかいふことである。又「きさらぎや雪間を分けし春日野に置く霜月も神祭るなり」と詠まれた霜月の神祭が今も絶える事なく行はれるのは、国土安楽を御守護下さる神慮によるものである。それで、毎年二月の第二日に、此の宮寺へ参勤して、翁の歌を謡ふ法楽も、さぞかし御納受下さる事であらう。かやうなわけで、興福寺の西金堂と東金堂との両堂の御法会にも、先づ遊楽の舞歌を整へて、御代の万歳を祈り奉り、国土豊かに民も裕福な新春を迎へて、年を積むのであつて、薪の御神事と申すのも、これをいふのである。それで北野の天満天神の御願文にも、「名は大唐に聞へ、は興福に留まる」と、あらたかに仰せられ、興福寺の十二大会の最初に当つても、この遊楽を奏する事の、当代の今に至るまで絶える事のないのは、眼前にあらたかな神道の尊さであつて、行末も幾久しくさかえることであらう。

これを見ん、のこすこがねの島ちどり、跡もくちせぬ世々のしるしに。(書き残す所のこの謡は、佐渡の流人の筆の跡として、後世までも朽ちないしるしとして、人々は見ることであらう)
永享八年二月日沙弥 善芳

 

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