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只言葉〽 又、西の山麓を見れば、人家甍を並べ、都と見ゑたり。泉と申所なり。これは、古、順徳院の御配処也。然れば、御製にも、限り有れば、萱が軒端の、月も見つ、知らぬは人の、行末の空。実にや、十善万乗の御聖体、さしも余薫の御蔭とて、其の名も高き山桜、梢の花と栄えん。雲居の春の長閑さも、今さもして、天離る、鄙の長路の、御住居、思ひ遣られて、傷わしや。所は、萱が軒端の草、忍ぶの簾、絶々也。
下歌う〽 夕立落つる庭潦、是れもや泉なるらん。
上〽 下潜る、水に秋こそ、通ふらし、〳〵、掬ぶ泉の、手さへ涼しき。折々に、御衣のたもと?や萎れけん。実にや人ならぬ、岩木も更に、悲しきは、美豆の小島の、秋の夕暮、と詠めさせ給しも、御身の上と成りにけり。
下〽 樒摘む、山路の露に、濡れにけり、暁起きの、墨染袖も、同じ、苔席の、誰ぞ、錦の、御褥ならん、傷わしや。
上〽 薪樵る、遠山人は、帰る也、里迄送れ、秋の三日月も、雲の端に、光の影の、浮世をば、君とても、免れ給めや。さてこそ?、言ならく、奈落の底に、入ぬれば、刹利も首陀も、変らざりけるとなり。実にや、蓮葉の、濁りに染まぬ?、心もて、泉の水も、君住まば、涼しき道と成りぬべし、〳〵。

 

〔口訳〕又、西方の山麓を見やると、人家が甍を並べてたち列なつて、この国の都と思はれる眺めである。泉と申す所である。これは往昔、順徳院の御配処であつた所である。それで御製にも、「限りあれば萱が軒端の月も見つ、知らぬは人の行末のそら」と御詠み遊ばされたのである。まことに、十善万乗の御聖体を迎へ申して、さしも有難い余薫の御蔭を蒙つたといふので、世に名高い此処の山桜は、梢の花に益々其の栄えを見せることであらう。雲居の春の長閑さを思ふにつけ、今かやうにして、遠境辺土の御住居を拝しては、御心の程も拝察せられて、まことに御痛はしいことである。所は萱草が生ひしげり、草葺の軒端には忍草の簾も、絶えだえの有様である。夕立が降り落ちて、庭には庭潦が流れる。これも泉といふべきであらうよ。「下くぐる水に秋こそ通ふらし、掬ぶ泉の手さへ涼しき」といふ古歌があるが、泉を掬び給ふ御手の涼しい折々には、御衣の袂は御涙にぬれ萎れた事であらう。ほんに思へば、「人ならぬ岩木もさらに悲しきは、の小島の秋のゆふぐれ」と遊ばされた御製も、遂に御身の上の悲しさとなつてしまつたことである。「樒摘む山路の露にぬれにけり、暁起きの墨染の袖」といふ歌があるが、その墨染の世捨人同様の苔筵、これが錦の御褥であつたらうなどとは、誰が思ひかけようか。誠に御痛はしい限りである。「薪こる遠山人は帰るなり、里まで送れ秋の三日月」と御詠み遊ばした秋の三日月も、雲の端に物憂げな光を放つてゐる。この浮世の儚さは、万乗の大君とても御のがれになることは出来ないことであつた。それで「言ふならく奈落の底に入りぬれば、刹利も首陀もかはらざりけり」と言はれてゐるのである。まことに、この泉の水も、大君が御住み遊ばせば、「蓮葉の濁りにしまぬ」とよまれた清らかさで、涼しい浄土となることであらう。

 

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