〔通釈〕和歌は、人の心の中に思ふことを本にして、いろ〳〵の言葉をつらねて詠み出したものである。それは草木の種が本になつて、多くの枝や葉が茂り出すのと同じやうなものである。この世の中に生きてゐる人は、事業の多いものであるから、心にいろ〳〵な思が起つてくる。そのいろ〳〵な思を、花鳥風月などの見る物聞く物に託して、詠み出したのが即ち歌である。花の枝に来て鳴く鶯や、水の中に住んで鳴くかはづの声を聞くと、それは皆それ〴〵に心からうたひ出した歌である。してみると、生きてゐる程のもので、何か歌を詠まないものがあらうか。歌を詠むのは人だけではない、鳥やけだものや虫まで、かうして皆それ〴〵に歌を詠むのである。力をも入れないで易々と天地を動かしたり、目に見えない幽冥の鬼神を深く感じさせたり、男女の間を睦しくなるやうにしたり、荒々しい武士の心をも慰めたりなどするのは、皆歌の徳である。
さてこの歌といふものは、天地開闢の時から出来たものである。さうであるけれども、しつかりと歌として世の中に伝つてきたのは、天では下照姫の詠まれた歌からはじまり、国土では素盞嗚尊の詠まれた歌から起つてゐるのである。神代の時分には、まだ歌の文字の数も定まつてゐず、その上質朴で古風で、どういふことを詠んだものか、その歌の意味が今見てはわかりにくいものであつたやうだ。さて人の世となつてから、あの素盞嗚尊が詠まれた歌のやうに、専ら三十一文字の歌を詠むやうになつたのである。
さうして、花を賞翫したり、鳥を羨んだり、霞を憐んだり、露の身の上を悲しんだりする心や詞が、だんだん多くなりさま〴〵になつたのである。大層遠い所でも、最初に踏み出す足許からはじまつて、長い時日の間には行き着くことが出来、非常に高い山でも、麓の塵ほどの泥土から積り積つて、雲のたなびく程高くなつたのであるやうにこの歌も段々と広く盛んになるであらう。
さて「難波津に」といふ歌は、天子の御事を詠んだ最初の歌である。そして「あさか山」といふ歌は、采女の戯れから詠んだ歌で、この二首の歌は、歌の父親母親のやうであり、子どもの手習の始めにも先づこれを習ふことにしてゐる。
さて先づ歌には六つの体がある。漢詩にも此の六つの体があるであらう。その歌の六体の第一はそへ歌、第二はかぞへ歌、第三はなずらへ歌、第四はたとへ歌、第五はたゞごと歌、第六はいはひ歌である。
さて今の世の中は、争つて色に媚び、人情は浮華になつたので、浮薄な歌やたわいもない詞ばかりが出来るから、歌といふものは、たゞ色に耽ける人の、内証の翫弄物となつて、まじめな所へはおもてむきに顕して出されぬやうになつてしまつた。歌の起源を考へると、こんな有様である訳のものではない。昔の御代々の天子は、春の花の時分や、秋の月夜などといふ時には、いつでも、御身近くに仕へてゐる人々をお召しになつて、何か事がある度毎に、歌を詠んで献るやうに仰せ付けられた。さうして、或は花に憧れて人気遠い所までも尋ねまはつたり、或は月に心を寄せて、まだ出ぬ前や入つてしまつた後など暗いのに、案内も知らない所をあちらこちら歩きまはつたりするやうな、風流な心々を、その詠んだ歌によつて御覧なされて、あれは賢い者だあれは愚な者だといふことを、御存知なされた事であらう。又、公の上の事ばかりではなく、私の思を述べるのにもこの歌によつたのである。例へば、さゞれ石にたとへたり筑波山にいひかけたりして、君を御祈り申し、又、身に過ぎた喜びや、心に余る程の楽しみのある時、或は富士の煙に寄せて人を恋しく思ひ、或は松虫の音を聞いて友だちを慕ひ、年をとつては、高砂や住の江の松も自分と同じ齢に生ひ立つものゝやうに思ひ、又年老いた男が、男盛りであつた昔のことを思ひ出し、年老いた女が、花のやうになまめかしかつた昔のことを思ひ出してくよ〳〵する時にも、すべて歌を詠んで自分の心を慰めたのである。又、春の朝に花の散るのを見たり、秋の夕暮に木の葉の落ちる音を聞いたり、或は来る年毎に、鏡に写つてみえる自分の白髪や皺が多くなつてくるのを歎いたり、草葉に置く露や水に浮く泡などに自分の生命をたとへて、そのもろくはかないことに驚いたり、或は昨日までは栄耀豪奢を極めた人が、今日は勢力を失つて世に捨てられ、昨日まで親しかつた人が俄に疎遠になり、或は松山の波や、野中の清水に自分の思を寄せたり、秋の萩の下葉をながめたり、暁の鴫の羽搔をする数をかぞへたりして独り淋しがつたり、或は身のつらい事を人に話したり、吉野川を喩にひいて世の中を恨んだりしてきたのに、今では、永久な物のためしに引いた富士山の煙も立たぬやうになり、長柄の橋も新しく架けかへられるやうになつたと聞く人は、世の転変の甚しい歎を、歌を詠むことによつてのみ慰めたのである。
ずつと昔から、かういふやうに伝つてきたうちにも、取り分けて奈良の御代から盛に詠まれるやうになつたのである。その御代に、柿本の人麻呂といふ人が歌の聖人であつた。又、山部の赤人といふ人がある。この人も歌が不思議に上手であつた。人麻呂は赤人の上に立つことが出来にくく、赤人は人麻呂の下に立つことが出来にくかつた。この二人の他にも、歌に秀でた人は、各時代々々に顕れて、絶えたことがなかつた。さて、この奈良の時代までの歌を撰集して、それを「万葉集」と名づけられたのである。その時代からこちらへ、年数は百年余りになり、天皇の御代数は十代目になつてゐる。
その間に、昔の事や歌の本旨などをよく知つてゐる人、又それをよく知つて歌を詠む人は多くなく、わづかに一人二人である。しかもその一人二人の人でさへ、どれも十分な歌人ではなくて、互に得失がある。今その得失を論じようと思ふが、官位の高い人は、余り軽く扱ふやうで無礼であるから、遠慮して論評の中へは入れない。その他で、近世で歌人であるといふ名声の聞えた人を挙げると、先づ僧正遍昭は、歌の体裁はよく捉へ得てゐるけれどもその歌には誠実の意が乏しい。これを物に喩へてみると、上手に描かれた美人画には、徒に人の心を動かす美はあるけれども、生きた真実の精神がないやうなものである。在原業平の歌は、心が余つて言葉がいひ足らない。ちやうど、しぼんだ花の色はなくなつて、その匂だけがまだ残つてゐるやうなものである。文屋康秀の歌は、詞の用ゐ方が巧妙であつて、その技巧が内容に相応しない。喩へていふと、心の卑しい商人が、身に不釣合な美服をまとうたやうなものである。宇治山の僧喜撰の歌は、言葉が幽玄であるけれども、その一首の意味が始終を貫徹してゐない。喩へていふと、秋の月を見てゐるのに、暁の雲が出てきて月をかくしたやうなものである。小野小町の歌は、感情があふれてゐるやうであるけれども、強いところがない。喩へていふと美人に何か悩むところがあるのに似てゐる。大友黒主の歌は、その心は面白いが、その体裁はいやしい。喩へていふと、たき木を負うた賤しい山家爺が、花の木の下で休んでゐるやうなものである。この他の人々で、歌人としての名の世に聞えてゐる人は、野原に生えてゐる葛のやうに充満し、林に繁つてゐる木の葉のやうに沢山あるけれども、いづれも皆、只漫然と歌だと思つてゐるだけで、歌の本旨といふものを心得てゐないのであらう。
さうであるのに、今上天皇の御治世も、今年で九年目になる。どこからどこまでも洩れた所のない君の御慈愛は、遠く国の外までも行きわたり、広く渥い君の御恩恵は、筑波山の蔭よりも繁くすべての人の上に行きわたつてゐる、有難い御治世で、いろ〳〵の御政事を行はせられる御ひま〳〵に、文学技芸一切の事を御奨励なさる余りに、神代以後の代々の帝が侍臣等に歌を詠ませられた事や、万葉集の撰定があつた事などを忘れず、それらを再興遊ばさうといふ思召で、今も御覧遊ばされ、又後々の世にも伝はれと思召されて、延喜五年四月十八日に、大内記の紀友則、御書所預の紀貫之、前の甲斐少目の凡河内躬恒、右衛門の府生の壬生忠岑等に仰付けられて、万葉集に入らぬ古歌、ならびに自分々々の歌をも集めて差上げしめられて、その中で、梅の花をかざす春をはじめとして、時鳥を聞く夏、紅葉を折る秋、雪を見る冬にいたるまでの四季の歌、又は、鶴亀に寄せて君の御寿命の長からんことを思ひ、その他の人をも祝ふ賀の歌、秋の萩や夏の草を見て妻を恋ふ恋の歌、逢坂山まで旅立つて行つて手向の神を祈る別離、羈旅の歌、或は春夏秋冬の四季にも入らない種々の歌などを選ばせられた。それがすべて千首あまりで、二十巻になつた。名づけて古今和歌集といつた。
かうして今度この歌集が出来て、斯道の流は絶えず、名歌も数多く集つた事であるから、今から後は歌道の衰頽するといふ恨もなく、さゞれ石が巌となるやうに、ます〳〵栄えて行く喜ばかりがあるべきである。さて私達は、詞はまだ稚拙であつて何の妙味もないのに、虚名だけは、此の集を撰んだといふことにかこつけて、歌道に長けてゐるやうにいひ立てられたから、一方では人の聞く所を憚り、又一方では歌に対して恥ぢ入る次第ではあるけれども、立つても居ても寝ても覚めても、自分達がかういふ聖代に生まれて、歌集勅撰の美挙のある時にあつたのを嬉しく思つてゐる。歌聖人麻呂は既になくなつてゐるけれども、歌道は滅びないで、この古今和歌集に残り留まつてゐることよ。上古のやうに歌はあつても、文字がなければ後世に伝へる術はないが、たとへ時世は変遷し、諸事は盛衰しても、万の事を興し給ふ聖代には、この歌の文字といふものがあるから、誠に幸である。この歌集が、世に絶えず散佚しないで、永久に伝つたならば、その後の世に於いて歌の本旨をも知り、この歌集の勅撰された事情をも弁へた人は、この歌集によつて、大空の月を見るやうに、古代を仰ぎ尊び、この歌集の出来た今の世を恋ひ慕はないであらうか。